ビール Beer その3(平成・令和編、DRY→発泡酒→第3のビール)

信長がビールを飲んだ?キムタクじゃん!  照れまん

 1987年・昭和62年3月17日。アサヒが突然「アサヒスーパードライ」を新発売、と言うところまで前回書きました。
 スーパードライが社会現象を巻き起こすほどの爆発的なメガヒットした事により『ドライ戦争』が勃発します。
 “SUPER DRY” ”スーパードライ” はアサヒの登録商標なのですが,日本では DRY が一つのジャンルになっていきました。
 では、この「DRY」ビールとはいったい何なのか?それまでの他のビールとどう違うのか?その辺りを探ってみたいと思います。

買初のビール自販機よりごとん  奈良文夫

 先ずビールの定義ですが、西暦1516年にドイツで「ビール純粋令」が出されたと 『ビール・その1』 で書きました。
 ビールは「水・麦芽・ホップ」以外のものを使ってはならない、と言うものです。これはあくまで古いドイツの法律。しかし、ドイツでは今も生きているようですが、現在はどこの国でもビールの中にハーブ・スパイス・フルーツ・スターチなど色んなものが入っています。それで、1987年より非関税障壁として、輸出入に関してはある程度緩くなっているようです。
 現代の日本の法律では、時代と共にすこしづつ変るのですが、ドライビールの出来る前の1980年・昭和55年にに施行された「ビールの表示に関する公正競争規約」のビールの定義を読んでみます。
【1麦芽・ホップ・水を原料として発酵させたもの。アルコール度数が20度未満のもの。    2 麦芽・ホップ・水 および 麦その他政令で定める物品を原料としたもの】
とあります。主原料「水・麦芽・ホップ」は同じですが、その他政令で定める物品は使用しても良いと書いてあります。それを調べてみると、副原料として、麦・米・トウモロコシ・澱粉(デンプン)は使用出来るようです。ただし、麦芽67%以上使用するものをビールと表示出来ると書かれていますので、麦芽の重さを100としたとき、副原料が33を越えてはならないという事。
(但し、現在は副原料の種類がものすごく増えています。そのことは又次の回にでも書ければと思っています。)

 これまでは、麦芽の多いほど本物のビールで美味しいと思われていました。ところが、アサヒは逆転の発想。麦芽を規定のギリギリの70%まで減らし、米とトウモロコシの澱粉を30%ほど使用したようです。澱粉はコーンスターチなどのスターチと呼ばれるものです。

stach スターチ ①澱粉 でんぷん ②洗濯用糊 のり。

 ここでもう一つ重要なポイントはイースト菌です。イースト菌と言えばパンを作るときに用いるものと言うイメージが強いですよね。それです、そのイースト菌です。イースト菌は発酵させる時に用いられる微生物。
 実はパンとビールは兄弟のようなものなのです。大昔はパンからビールが造られたこともあるようです。パンを水に浸けて暫く置いておくと、イースト菌の活動により発酵。二酸化炭素とアルコールに分解されます。その時、炭酸ガスは上にぷくぷくと出て行きますが、アルコールは甕や瓶の底に溜まります。それで、昔は麦わら(ストロー)を差し込み、チュルチュルと下に溜まったアルコール部分を飲んでいた、と言う記述や絵が残っているようです。

ビール泡消ゆ有事法論じゐて  塩川雄三

yeast イースト・イースト菌、 酵母・こうぼ
イースト :真核生物・菌界・子嚢菌門・サッカロミケス目・サッカロミケス属(サッカロミュケス又はサッカロマイセス又はサカロウマイシーズとも呼ばれる)他には、カンジダ属など、ありがたくないものもあります。 

イースト は発酵をさせる源であるということから、母なるものというので、日本では 「酵母」と翻訳されました。イースト菌・酵母菌は真核生物。5~10μm。乳酸菌や大腸菌は核を持ちませんが、これは核を持っている微生物なので真核生物。酸素のないところで、糖をアルコールに分解する「発酵」を行ないます。酵母には色んな種類が多数あり、その総称が イースト・酵母 のようです。

 Saccharomyces サッカロミケス属の中に多くのビール酵母があり、Saccaromyces cerevisiae エール株Saccharomyces pastorianusラガー株 などがあるようです。このエール株とラガー株は異なる性質を持ち、上面発酵と下面発酵とに別々の用いられ方をしています。
 Wikipedia には サッカロミケス属 は21種類書かれています。21種類の中の一つ一つに沢山の種類・株があるようです。何種類の株が発見されているのか書かれていませんが、かなり膨大な数が発見されているのではないかと思われます。(あるサイトには数万種類と書かれたものもあります) 

 アサヒは数百種類のイースト菌の中から「318号酵母」という、ずば抜けて高い発酵能力を持った酵母を見つけ出し使用しています。この酵母は糖をアルコールに変える酵素を沢山持っているそうです。麦芽に米とトウモロコシのスターチをどのくらい混ぜればいいのか。又、米のスターチとコーンスターチの比率もどれくらいがいいのか、その割合は何度も何度も実験を重ねて、最高の比率を導き出したと思われます。恐らく,それらは マル秘 だったのではないでしょうか。318号酵母の良さを最大限生かすために副原料としてのスターチが使われたと思われます。
 高い発酵能力により、深みが増し上品で洗練された味わいを醸し出す香味特性とを併せ持った類い希なビールが誕生。アルコール度数も4.5%から5.0%へと上がっています。深みがありコクがあるのに雑味のないクリアな味わいのビールになったようです。

 アサヒは1927年にビール酵母の製剤化に成功、と書かれていますので、長年にわたる酵母の研究の結果、バイオテクノロジーや遺伝子工学を駆使し、1985年「新アサヒ生ビール(コクキレビール)」を発売しています。一歩づつ着々とDRYの研究開発が進んでいたようです。それで1987年、遂にスーパードライの新発売に漕ぎ着けました。

ビール苦く葡萄酒渋し薔薇の花  正岡子規

 戦後、日本人の食生活が大いに変ってきました。
 脂っこいものが多くなり、糖分・塩分が増えました。焼き肉・ステーキ・豚カツ・ハンバーグ・天麩羅・焼き飯・酢豚・ラーメン・カレーなど。1960年代から、たった20年で脂質の摂取量は二倍に増えています。砂糖を使った料理も日本料理には沢山あります。すき焼き・ウナギの蒲焼き・肉じゃが・ちらし寿司・稲荷寿司、酢の物。それから食後の甘いケーキもあります。
 それに流通が発達するとナマ物も沢山食べるようになりました。刺身・にぎり寿司など大変人気があります。そのような洋食や和食やナマ物を食べた時、食事中にスーパードライを飲むと口の中がさっぱりして、リフレッシュするようです。苦味と甘さが抑えられているのにも関わらず、コクがあって爽快感があるので、口の中がリセットされ、次の一口が又美味しく感じられるそうです。元々ビールにはホップが入っているのでそういう感じはあるのですが、なおさら強く感じられたのでしょうか?
 そう言われれば、そうなんだと何となく解るような気がして、爆発的にヒットした理由も頷けます。
 成る程なあと感心してしまいます。面白いですね(☆∪☆)!

 ネーミングもコマーシャルもデザインも味も、当時としては何もかもがぶっ飛んでいました。時代背景も、アゲアゲのバブル絶頂時代。丁度良かったですよね。バブルが崩壊する前でしたから・・・。そういうことも含めて、社会現象を起こすほど売れることになったのでしょう。1987年のヒット商品番付の東の横綱に「アサヒスーパードライ」が選ばれています。
 新製品の初年度売り上げ最高記録は、それまでサントリーの「モルツ」の200万ケースでしたが、それを大幅に上回る1350万ケースというとんでもないオバケ記録を打ち立てています。
 (スーパードライは元々年間100万ケースを目標としていたので、一番驚いたのはアサヒだったかもしれませんねwww)

 他社としてはびっくり仰天したでしょうね。これはヤバイと思ったはずです。それで、“DRY 戦争”が勃発することになります。
 翌年、他社も次々とDRYビールを投入します。1988年2月22日キリンは「キリンドライ」を発売。サントリーはその翌日2月23日「サントリードライ」を発売。サッポロはその三日後の2月26日「サッポロドライ」を発売。
 なんか、すごいですよね。たった五日の間に三社がドライビールの新製品を次々に新発売しています。スーパードライ発売から、丁度1年後の事です。それほど、スーパードライはインパクトがあったと言うことでしょう。研究開発には時間が掛かるでしょうから、たまたま重なったと言うことでしょうけど・・・。それだけ、開発を急いだという事でしょうね!! 

 1989年には酒類販売免許が緩和され、大型ディスカウント店でビールを売ることが出来るようになります。そうすると、若者は車で郊外の大型店に買い物に行き、ビールなどは箱買いするようになってきて、ますますビールの売り上げは伸びます。

箱買いのドライビールと干柿と  照れまん

 アサヒはコマーシャルで「この味が、ビールを変えた。」と言うように、先発の強みと独創的開発の信頼性は増し、圧倒的に売れます。他社はどうしても二番煎じや真似をしたというイメージがつきまといますので企業イメージは良くなりません。DRYを売ればそれまで売っていた商品の販売が落ちることにも成りかねません。それは、ちと不味いしマイナスです。ドライビール発売では、どの会社の商品も、良く売れたのですが、やっぱりスーパードライが圧倒的で、全体の3分の2はアサヒでした。しかし、このままでは他社も終われません。

 スーパードライが麦芽を少し減らして美味しい麦酒を造りました。このことが次なる戦いへと発展します。
 個性的な商品開発や新しいものへのチャレンジなど、とても面白い動きが出てきます。スーパードライが麦芽70%で美味しい麦酒が出来るのならば、もっと麦芽を減らしても美味しい麦酒が出来るのではないかと考えてもおかしくはないですよね。面白いことに麦芽67%以上はビールですがそれ以下は発泡酒と言うことになります。発泡酒はビール税が、かなり安くなります。これは消費者にとっては嬉しいことだと考えられます。麦芽を少なくしたビールの新商品の開発が急進します。

 1994年、遂にサントリーが新商品「ホップス」という発泡酒を新発売。麦芽が65%以下なのでビールとは呼べず、当時はまだ発泡酒という言い方が浸透していなかったので「ホップス」としか呼ぶことが出来ませんでした。当時ビール350㎖缶が220円なのに対し、HOP’S希望小売価格が180円です。味はライトで軽いので飲みやすいという事でヒット商品になります。

 ここから次は発泡酒戦争が始まります。
1995年にサッポロが麦芽25%未満の発泡酒「ドラフティー」を新発売します。発泡酒は麦芽が25%未満になるともう一段ガクンと税金が安くなります。それで、350㎖缶で希望小売価格160円です。
 1996年にはサントリーも25%未満の「スーパーホップス」を145円で新発売。劇的に安くなりました。


 キリンも1998年発泡酒初参入で「麒麟淡麗」を発売しています。発泡酒ですが大麦も使われている為味が良く、淡麗は驚くほどよく売れました。その後、派生品が多数作られます。
 どの会社も次々に新商品や派生商品を開発・発売しています。

【1996年大蔵省は麦芽“50%以上67%未満の酒税をビールと同等としました。政治家と役人は税金が減ることに異常に反応し、すぐに麦芽量を67%から50%に落とし、税金を増やすことにしています】

 1996年6月、スーパードライ発売から丁度10年。ビールの銘柄別月間売り上げで長い間首位を走っていたキリンラガーを抜いて1位になっています。1997年には銘柄別の年間首位にスーパードライがなっています
 2001年、スーパードライ発売から14年、遂にビール類の全体の売り上げで首位を走っていたキリンを抜き1位になります。
 王者キリンを抜きアサヒが日本一のビール会社になっています。これはまさしく大ニュース。業界3位でシェア10%を切って4位に転落しそうなアサヒとは思えない大躍進。48年ぶりに首位奪還という日本の十大ニュースになりそうな記事ですよね。

ビールないビールがない信じられない  関根誠子

 ビールの税率を書いてみますと、2001年ビールは最高税率48,8%ととても高く、約半分は税金を飲んでいるような感じになります。令和2年・2020年の麦酒税を見てみると 酒税+消費税=47,5%です。やはり、かなりお高いですね。

 2010年頃の1リットルあたりのビールの税金の金額を書いてみると、
〇麦芽50%以上    ビール、税金220円
〇麦芽25~50%未満 発泡酒①  178円12銭5厘
〇麦芽1~25%未満、 発泡酒②  134円25銭
〇麦芽0%は   第3のビール    80円。これはリキュール類になりますが、マスコミでは便宜上「第三のビール」と呼んでいます。
ちょっと解りにくいかも知れませんので、350㎖缶に換算して書いてみます。
350㎖缶 ビール・税77円。麦芽25~50%未満発泡酒・62円。麦芽1~25%未満発泡酒・47円。麦芽0%第3のビール・28円。第4のビール・28円
 ちなみに、日本のビール税はドイツの17倍、アメリカの9倍だそうです。エーッ、ウソーホント・・・!!ってな感じです。

 第3のビールとしては2004年サッポロが発売した、麦芽以外の原料で造った「ドラフトワン」が最初。これはエンドウ蛋白(タンパク)が使われています。
 サントリーは「麦風」(ばくふう)を出します。これは麦焼酎が使われているようなのでリキュール類ですが、第3のビールと言うことになるようです。2007年には「金麦」を発売し大ヒット。沢山の派生品が生れています。
 2005年キリンは「のどごし〈生〉」大豆蛋白を使用。アサヒは「アサヒ新生」これは大豆ペプチド他が使われています。これら第3のビールが次々に新発売されます。
 この頃、350㎖缶6本入りセットで598円という一本100円を切るビールも登場しています。コーラやジュース・水より安いんですよ。信じられますか?ものすごい企業努力です。
ーー我々庶民としては、ビール会社に「天晴れ!!」を差し上げたい (☆∪◎)!ーー
 この他、リキュールや焼酎などを使った新しい『第4のビール』も誕生しています。第4のビールの酒税は第3のビールと同じ350㎖缶28円と安いです。第4のビールは発泡酒にスピリッツ(蒸留酒)をブレンド・加えたビール風アルコール飲料です。
 サントリー「スーパーブルー」、キリン「良質素材」、アサヒ「極旨」,サッポロ「W-DRY」、そして、サントリー「金麦」などが第4のビール。現在は多数発売されており、外国・近隣の国からも安いビール風味のアルコール飲料が輸入されています。

グラス磨くビールの泡のためだけに  肖子

 発泡酒や第三のビールが売れ始めると、本家のビールの売り上げが右肩下がりで落ちてきます。1994年をピークに、ビールの販売量が少しづつ下がり始めます。ワインブームが起こったり、焼酎が流行ったり、ハイボールがトレンドになったり、多様化も進みます。
 やはり発泡酒や第3のビールはかなり値段が安いので、節約思考や家計防衛の為、そちらに流れるのは当然かも知れません。
 初めは発泡酒が伸びますが、続く第3のビールは発泡酒を追い抜き、そして遂に2020年には本家のビールを追い抜いて、売り上げ1位になります。
 第3のビールが売れると言うことは、ビールの売り上げが落ちると言うことであり、それは税金収入が減ると言うことです。
 これで、黙ってはいられないのが政治家と役人です。
 2020年よりビール税を1ℓあたり220円→200円に下げ、発泡酒25~50%未満178円→167円に下げ、25%未満は134円のまま。第3のビールは80円→108円へと大幅に引き上げられました。
 これがですね、2026年には全てのビール類の税率が同一の154円25銭になることが決まっています。ビールも発泡酒も第3のビールも第4のビールも、全部同じ154円25銭になります。

 簡単にDRYビール発泡酒第3のビール第4のビールと書いていますが、作る方はそう簡単な話ではありません。ビールの材料ではないものからビールを造るわけですから,大変な企業努力、研究開発が必要です。
 そういうことを知ってか知らずか,税収入が減ると政治家や官僚はすぐに法律を改正します。せっかくの企業努力に水を差すことを何とも思いません。
 DRYビールのように世界に通用するビールが生れたりしています。次にはもっと面白いあっと驚くような新製品が生れるかも知れないのに残念ですよね。現在ではフルーツや鰹節や昆布出汁の入ったビールも造られています。
 企業は法律を守り、法律の中で庶民が喜んでくれるような新しい安くて美味しいビールを開発しているのに、法律を変えたら何の意味もありません。政治家は企業努力などどこ吹く風。全く理解しようとはせず、お構いなしに法律を変えます。
 大型車・普通車・軽自動車の税金を全て普通車に統一します・・・、ってなもんです。それでは軽自動車の意味が無いですよね。

愛国心育つサッカー缶ビール  瀬下るか

 ここで一言言いたいのですが、国会議員は自分達に都合の悪いことは中々実行せずお茶を濁しますが、自分達に都合のいいこと・うま味のあることはあっという間に改正します。ごり押ししてでも変えます。
 ① 例えば 「国会議員が多すぎるから減らせ」と言われると、「はいはい、10人減らします!」と言って、10人増やしています。いわゆる10増10減です。ちょっと前には5増5減というのもありました。
 絶対に減らしません。「阿呆かいな!」と思いますが、どうしようもありません。
 ② それから、国会議員の歳費ですが、給料とボーナスの他に、毎月100万円の小遣いが支給されています。これは「文書通信交通滞在費」という名目です。年間1200万円ものお金が何もなしにポンと渡されています。「こんなお金は必要ない。使うなら領収書ぐらい出せ」とやり玉に挙がったのですが、これが何と、「調査研究広報滞在費」という名目に看板だけが書き替えられただけで終わりました。看板だけを書き替えて何一つ変えず終るってどういうことでしょう??「喉元過ぎれば熱さ忘るる」「人の噂も七十五日」を待っているのでしょうね。
――田舎では、介護の仕事で一年間必死に働いて夜勤もして、それで年収300万円に届かない人もいるんですよ――
 ③ もっとひどいのは、小選挙区比例代表並立制の重複立候補制度です。国会における衆議院議員選挙では、小選挙区と比例区で重複して立候補できます。これで、小選挙区で落選しても当選するという、ものすごい裏技というか離れ業です。「何で落ちた人が当選するのか?」と国民を馬鹿にしているとしか思えない法律ですが、こういうことはちゃっかりと作っています。「外国がやっているから取り入れただけだ」と言えばそれまでですが、自分達を守るため、都合のいいことはどんな法律でも可決してしまいます。参議院は採用してないのですが、どうしてでしょう??
 まあ、はっきり言えば、今の国会議員の半分は役に立ちません。国会議員になってから勉強します・・・、なんて人達ばっかりですから。せめて国会議員になる前に勉強しといて下さいよと、と言いたいですがね。
 サイバーセキュリティ担当大臣が、全くパソコンはやったことがないと言う言い訳が、「秘書が使ってますから!!」と言うのには、思わず笑って仕舞いました。

 あれあれ、最後は愚痴になってしまいました。御免なさい(×∪×)ペコリ!!

愚痴愚痴と煮込みしおでん冷ビール  照れまん

 令和2年・2020年の酒類全体の課税総額は1兆1300億円です。
 課税数量でビール類の占める割合を見てみると、リキュール・第3のビール32.%、ビール22.5%、発泡酒7.4%となっています。ビールはだいぶ抜かれています。
 課税額の金額で見てみますと、ビール33.9%・3381億円、第3のビール21.2%・2394.3億円、発泡酒72%・812.9億円となってをり、ビールは税がいかに高いのかが解ります。
 酒類全体の課税額からビール類を見てみますとはおおよそ62.3%を占めていますので、約7038億円くらいは国民がビール税を納めていることになります。すごい額です。
(但し、これは私が表から計算した数字です。第4のビールはリキュールに含まれていると思うのですが、はっきりとは解りませんでした。それで、この計算は多少違っているかも知れません。ここでは、大まかな数字は「これくらいだろう!」と思っていただけるとありがたいです。間違っていいたら御免なさい!)

 さてさて、話があちこちに飛んで大変長くなってしまいました。今回はこれくらいにしておきます。
次回 「ビール その4」 で現在のビールなどあれこれ書いてみたいと思います。
 それから、俳句の季語についてはまだ書いてないので、書こうと思っていますがどうなるでしょう。
 また、次回宜しく・・・・。 

過去は過去ビールの泡と人の口  照れまん

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ビール Beer その2(戦後・昭和編)

かるくのどうるほすビール欲しきとき  稲畑汀子

 前回、ビールの起源から第二次世界大戦が終った所まで書きました。今回はその続き、日本の戦後のビールについて書いてみます。

 第二次世界大戦が激しくなってくると、麦酒工場は一部軍需産業に譲渡されたり、接収されたりします。アルコール生産や軍需品の部品造りの工場になったりしました。
 大戦終了間際の1945年(昭和20年)5月、大蔵省のビール配給停止により、ビール製造は中止を余儀なくされます。
 当時ビールはまだまだ贅沢品でした。
 [注:明治の中頃、麦酒の発売が始まって間もない頃の麦酒の値段が、現在のお金に換算するとビール瓶1本6000円、大正時代末には約1200円、昭和25年3105円、この年より年々下がっていき、最近平成24年2012年には192円ととても安くなっています] 

 終戦後、間もなくビールは生産が許可され開始されます。戦争により爆撃で工場がかなり破壊されたり、また原料不足・燃料不足・人員不足などが重なり、一気に増やすことは出来ません。しかし、徐々にではありますが数量は増やしていきます。まだまだ原料は配給、製品は統制品なので、全ては国に納めてをり、一部は占領軍に納入されるようになります。

 さて戦後ですが、連合国軍・GHQ が進駐してきます。

左の写真は GHQ が入った第一生命館

 進駐軍 GHQ (General Headquarters) 連合国軍最高司令官総司令部。
 GHQ は軍国主義日本を民主主義国家にすべく大改革を始めます。
 先ずは極東国際軍事裁判(東京裁判)財閥解体・農地解放。そして、過度経済力集中排除法。これは現在で言えば、独占禁止法。
 ビール会社は財閥とは深い結びつきがあり、大手が市場を独占し、闇カルテルを結び、中小企業を押さえつけていました。
 こういったことは大問題です。
 そこで、GHQから、大日本麦酒麒麟麦酒は過度経済力集中排除法の指定を受けます。(大日本麦酒はA級、麒麟はBC級であろうと思われます)
 GHQは大日本麦酒は大きすぎるので4分割。麒麟は2分割、合計6分割案が構想されていたようです。

 麒麟 は集排法に対し不服申し立ての意見書、長文のレポートを提出しています。
 麒麟は戦前のシェアが2割前後しかなく、全体に与える影響力は低いこと。もし分割された場合、明治時代に多くの中小ビール会社が倒産した事など、日本のビールの歴史。その他、財閥の排除として持ち株を処分する事など細かく書かれていました。この要望書はとても良かったのか、GHQは麒麟の意見を聞き、指定解除。そのまま存続を了承します。分割は免れました。結果は万々歳です。(本当のシェアは二割五分~二割九分でした)
 一方、大日本麦酒の方は、そう簡単にはいきません。巨大企業なので4分割。財閥の排除や硝子・流通業など多くの子会社の分離など、細かなことを厳しく求められます。
 そういうことを踏まえた上で、大日本麦酒は再編成計画書を提出し、2分割案を具申します。
 元々は3社が合併していたので3分割なら解りますが、それより少ない2分割案です。これはとても呑める案ではなさそうです。
 ただ、ビール業は軍需産業ではなく、財閥を排除・解体させるのが目的ですから、それを除けばいいので、一応分離・分割するので良しとしたのでしょうか?2分割案が了承・承認されます。かなり大目に見てくれたところがあったのか、それほど厳しい処置はされなかったようです。
 大日本麦酒は日本麦酒と朝日麦酒の二つに分割。日本麦酒はサッポロと恵比寿の連合ですが、後にサッポロビールに吸収され、恵比寿はサッポロの一部門になります。

 どうしてGHQが6分割では無く3分割案で妥協したのでしょうか。泣く子も黙るGHQが自分達の主張を取り下げるはずはありません。不思議です。
 しかし考えてみると、この三つの会社にする案は理に適っています。当時のビールのシェアは3社共々3割前後なので、同じ規模になります。天下三分の計の三国史ではありませんが、丁度同じくらいの会社規模になるのが良かったのかも知れません。それとも、ビール業界には余程傑出した人物がいたのでしょうか??
 アメリカとしてはソビエト社会主義連邦や中国共産党などが台頭しているので、日本の社会主義化を警戒し、日本人が反発をしないようにという配慮もあったのではないかと思います。会社をあまり小さくしすぎて、弱くしてしまう事に躊躇いもあったと思います。ある程度日本には強くなって貰わないと困りますが、強すぎても困ります。3分割なら丁度いいと考えたのでは無いかと思われます。
 昭和24年、やっと統制が解け、出荷制限も解除され、昭和24年12月から自社製品のブランドを表示して販売が出来るようになりました。
 分割前の昭和24年のシェアは大日本75%・キリン25%。
 大日本麦酒分割後の昭和26年のビールシェアは 日本麦酒36,0%朝日34,5%麒麟29,5%となっています。ほぼ3社態勢となっています。

進駐軍ビールのあてはチョコレート  照れまん

 戦後も落ち着いてくるとビールの消費量がぐんぐん伸びて、大衆アルコール飲料になってきます。麦酒業界は活況を呈します。
 1954年・昭和29年、ビール業界に波乱が起きます。業界3位だっ麒麟が「KIRIN LAGER – BEER」キリンラガービールで少しづつシェアを伸ばし、この年遂にシェア1位に躍り出ます。キリンは分割されなかったのがいい方に働いたようです。
1954年のビールシェア、キリン37.1%。アサヒ31.5%。日本ビール31.3%。となっています。その後、どんどんシェアを延ばして、1976年・昭和51年キリンがシェア63.8%、ダントツの1位・ガリバー企業になっていきます。 
 
 ―― 私が子供の頃、昭和30年代から40年代にかけて、大人がビールを飲むと「やっぱりキリンが一番うまいなあ!」といっていたのを思い出します。子供心にそんなにビールの味って違うのだろうかと不思議に思ったことがあります。―― 

 1956年・昭和31年,、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれました。前年30年頃より「三種の神器」がキャッチコピーとして登場します。これは、白黒TV・洗濯機・冷蔵庫 が普及し始めたので、この時代の家庭における三種の神器。
 冷蔵庫が普及すると共に、ビールが家庭の中に入ってきます。晩酌は清酒だったものがビールへと変っていき、ビールはお店で飲むものから、家庭でも飲む物に変ってきます。冷蔵庫のドアの内側にビールを常に冷やしていて、それを取り出して飲むという新しい生活スタイルになりました。そして、女性も少しづつ飲むようになってきます。清酒は強いですがビールは軽いので、女性でも飲みやすいですよね。
 昭和34年、酒類の販売で一番消費量の多かった清酒に変わり、ビールが一位となりどんどん伸びていきます。昭和30年代の10年間で、生産量が5倍に伸び、ビールが圧倒的な国民的アルコール飲料になります。

 
 昭和32年1957年、日本麦酒は「サッポロ」の商標を復活させます。翌1958年のコマーシャル「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」は素晴らしいフレーズ。北緯45度に並ぶビールの産地。子供心にもしっかりと覚えています。
 昭和39年・1964年、日本麦酒からサッポロビール株式会社に社名変更。昭和46年1971年、やっと「ヹビス」の商標も復活します。現在は「サッポロホールディングス株式会社」に社名が変っていて、ヹビスもその中の一ブランドです。

ゑびすビール大黒さまに注ぎもらふ  山田六甲

 昭和42年・1967年、ビール業界に道場破り的新商品が発売され波乱が起きます。
 突然、サントリーが生ビール「純生」を新発売。この「生ビール」で大論争が起き、「生ビール戦争」が勃発します。
 生ビールは本来樽から出して直接飲むビール。欧米では“draft”・”draught” beer ドラフトビールと言い、直接樽から出して飲む樽出しビール。もしくは、そのままの風味のある味わいのビールをいいます。
 ビールは瓶や缶に詰める時に、必ず加熱殺菌をしなければなりません。
 加熱殺菌は1866年パスツールにより開発された方法。60度なら約20分~30分、70度なら20秒~60秒でいいようです。これにより商品の日持ちが格段に伸びました。

「純生」は加熱処理をせず、精密濾過装置により雑菌や酵母菌を取り除いた物です。
 
 濾過装置は1800年代にはすでに簡単なものはありました。しかし1960年代、画期的な精密濾過装置が発明されます。
 アメリカの NASA の宇宙船の中で、おしっこなどを真水に変える装置として開発されました。これが民間に転用された物。初めは少量しか出来なかった物を、珪藻土を使ったセラミックが開発され、ミクロフイルターとセラミックや遠心分離機の組み合わせにより、大量に濾過できるようになりました。
 精密濾過装置はサントリーやサッポロが作るわけですが、色んな企業に協力して貰っています。マイクロフィルターは富士フィルムが開発した多孔質フィルターで、1ミクロン以下の微少なもの。特に酵母は完全に濾過する事が出来るようになったようです。

 実は純生が出る10年前に、すでにサッポロは正真正銘の壜詰めの生ビールを発売しています。1957年に「サッポロ壜生ビール」です。これは精密濾過装置の出来る前の時代の本当の樽出しビールを壜に詰めた本物の生ビール。それだけに日持ちが悪く賞味期限が短いのが難点で、地域限定だったようです。その後サッポロは色々研究を重ねていたのでしょう。
 精密濾過装置も最初に開発したのはサッポロでした。サッポロとしては、食品なので安全性を第一に考え、味・風味・品質・劣化・賞味期限など研究に研究を重ねていたのではないかと思われます。
 そんなことを知ってか知らずか、間隙を縫って、サントリーも精密濾過装置を開発し、先に商品化してしまいました。しかも、濾過ビール「生ビール」と称して「純生」の商品名で販売を始めます。この頃はまだ濾過ビールに対して、これだという名称がありませんでした。
 トンビに油揚ではありませんが他のビール会社としては「どういうこと!」って思いますよね。それで、正確に言えば「濾過ビールであって、生ビールでは無い」と大論争になります。
 サントリーはこれに対し、特許庁に特許を出願し、特許庁に採決を委ねることにします。特許庁の裁決は「加熱処理されていないので、これは『生ビール』と呼んでもいい」、と「純生」の商標登録を認めます。公正取引委員会も「濾過ビール・ドラフトビール」の熱処理をしていない全てのビールは「生」と呼称してもいいとしました。「生」というのは日本だけの呼び方ですが、日本では濾過ビールも「生ビール」と表示しても良いことになります。西洋の「ドラフトビール」と日本の「生ビール」は微妙に意味合いの違う日本独自の言い方だと思うのですが、日本では「生」が認められました。
 サントリーの勝利。純生で売り上げをぐんぐん伸ばし、三強を追い落とすかと思われたのですが、右肩上がりには伸びたものの、三強の一角を崩すまでには至りません。一発大逆転とはなりませんでした。
 他社も黙ってはいません。翌年、アサヒは「Asahi Draft 本生アサヒビール」を発売しています。「本生」は酵母菌を除去しないので「本当の生です。酵母が生きてます」と本物の生ビールと主張します。ただ、冷蔵必須で賞味期限は二週間と短かいのが難点でした。酵母の居ないビールは生ビールとは呼べないと主張し、「本生」こそが本物の生ビールであると宣伝しました。実は瓶入りの生ビールをを最初に発売したのはアサヒです。1900年明治33年「アサヒ生ビール」が日本初の瓶入りビールでした。そういうプライドがあったのではないかと思います。
 麒麟はラガーが売れに売れていたので動き無しです。

父と子のビール飲む顔似てきたり  林田加杜子

 ところで、ドラフトビールの draft ・ draught とは、プロ野球のドラフト会議のドラフトと同じです。
 draft 原義は「引く」  ①線で「描く」、線を「引く」こと。線画・設計図・下図など。②「書く」・下書きを「書く」・草稿・草案。③「通風」、隙間風。④一飲み。⑤車や網を「引く」。⑥「徴兵」。⑦選抜。⑧手形振り出し。小切手の支払い。⑨喫水。⑩樽から出す(移す)、生ビールなど熱処理していない物。他省略・・・。とあります。
 ドラフト会議はくじを「引く」のと「選抜する」と言う意味もありますので「引き抜く」・「選び出す」が派生しているようです。ビールは樽から「直接引き出す」取り出すのでドラフトビールと呼ばれるようです。

 ここで話は少し変りますが、突然『サントリー』が出てきましたので、「あれっ、どうして?」と不思議に思われる方もおられるかも知れませ。今まで全く出てきませんでしたから。そこで、ちょっとサントリーの歴史を簡単に紹介しておきます。サントリーを創業したのは大阪の鳥井信治郎。
 
 鳥井信治郎とりいしんじろう。1879年(明治12年)~1962年(昭和37年)。大阪、現在の中央区に生れる。1899年(明治32年)20歳で「鳥井商店」を創業。葡萄酒・ワインを販売する店。最初はスペインワインを売っていたようです。当時ワインは「渋い」とか「苦い」とか言われてあまり芳しくありませんでした。明治39年・1906年「壽屋洋酒店」と改称。翌明治40年・1907年、甘味料を入れた「赤玉ポートワイン」を発売。砂糖を入れた甘いワイン。

 この時作られたポスターがヌードを使った刺激的な物で、このポスターがドイツのコンクールで1位になったりしました。そんな宣伝効果もあッたのでしょうか?日本人にはこの甘いワインはとても合ったようで、驚異的な売り上げを記録します。

 ――昔の人というか私の父なんですけど、赤玉ポートワインしか知りませんでした。そこで、私がお土産に普通のワインを買って帰ったところ、「うわー渋いなあ。これは不味いぞー!!」と言ったのを思い出します。――

 1923年(大正12年)、竹鶴政孝(たけつるまさたか)がサントリーに入社し、ウイスキー造りを始めます。1928年(昭和3年)横浜の「カスケードビール」を買収してビールの製造販売を始めます。昭和5年「オラガビール」と改称し安売り販売に打って出ます。しかし以前書いたように大手は闇カルテルを結んでいて、販売価格を統一して、安売りをさせないようにしていました。そこに、サントリーが低価格で競争を仕掛けてきたので猛烈に反発。サントリーは窮地に立ちます。結局昭和9年、サントリーはたった6年間でビール事業から撤退。この年に竹鶴政孝も退社し北海道で大日本果汁株式会社・略称日果・ニッカ NIKKA を立ち上げます。
 その後、話は飛びますが戦後暫くして1961年(昭和36年)。父親の鳥井信治郎からj次男の佐治敬三が社長を引き継ぎます。1963年社名を「壽屋」から「サントリー株式会社」に変更。その年(昭和38年)もう一度ビール事業に打って出ます。「サントリービール」を新発売。2代目社長の佐治敬三の口癖が父親譲りの「やってみなはれ」ということで、再チャレンジ。そして、先ほど書いた昭和42年・1967年、生ビール「純生」を電撃新発売しました。麦酒業界ではかなり新参者ですがサントリーは大会社。開発意欲がありコマーシャルが上手なので、確実に伸びていきます。
 私が大阪の大学に通っていた頃、丁度「純生」が発売され、直営の居酒屋では、純生の幟を沢山立てていて熱気がありました。サントリーが力を入れているのが解りました。
 『サントリー』の社名ですが、私が大阪にいた頃、大阪人は「鳥井さん」を逆さまにして「さん鳥井」と洒落たのだ言っていました。実際は赤玉ポートワインで会社が発展しましたので、あの赤玉の「SUN」太陽から、太陽のように輝く会社、また赤玉を忘れるなと言うことから、SUNTORY・サントリーとしたようです。

ビールしか考へてはらへんのかい  稲畑廣太郎

 ここで、ビールとはちょっと離れるのですが、サントリーの竹鶴政孝が出てきました。NHK の朝ドラ「マッサン」の主人公のモデルとなった人物。有名なので書く必要は無いかも知れませんが、ほんのちょっとだけビールにも関係しているので触れておきます。

 竹鶴政孝(たけつるまさたか)1894年(明治27年)~1979年(昭和54年)。広島県加茂郡竹原町(現竹原市)に生れる。実家は塩田の大地主であり製塩業と酒造業を営んでいた。竹原の忠海(ただのうみ)中学(旧制中学)に通う。一級下に後の総理池田勇人がいました。大阪高等工業学校の醸造科に学ぶ。現在の大阪大学工学部にあたります。卒業する前にさっさと摂津酒造に入社しています。摂津酒造は洋酒のウイスキーを純国産したいと考え、竹鶴政孝をグラスゴーに留学させます。グラスゴー大学に入学し、有機化学や応用化学を学んでいます。その後、スコットランドのウイスキー蒸留所で実習を行なっています。グラスゴー大学に居た時、医学部にたった一人の女子学生がいて友達になり、家に遊びに行くようになります。そこで、お姉さんと知り合います。
 Jessie Roberta Cowan 通称 Rita リタさん。そのお姉さんと恋に落ち結婚します。親は医者ですから結婚には大反対。「東洋の果てのどこの馬の骨とも解らん奴に、娘はやれん!」というわけです。二人は両親の反対を押し切って結婚し、駆け落ち同然に日本に帰ります。

左の写真は竹鶴政孝と妻のリタ。

 1920年(大正9年)、竹鶴は意気揚々と摂津酒造に帰ります。ウイスキーを造ろうと張り切っていました。しかし、第一次世界大戦後の恐慌で資金のめどが立たず、ウイスキー工場建設が出来ません。結局ウイスキー事業は白紙。進出は断念することになりました。 
 1922年竹鶴は失意のうちに摂津酒造を退職。高校の教師になり化学を教えます。現在の桃山学院高校です。
 この頃大阪の帝塚山に住んでいます。関西以外の人は知らないかも知れませんが、帝塚山は大阪では高級住宅街。後には兵庫県の芦屋が有名になり影は薄くなりましたが、当時は関西のお金持ちが沢山住んでいました。リタさんは日本語も話せないし日本の習慣も全く知りません。なので、随分と苦労し、心細かったでしょう。しかし、帝塚山はとても良かったのではないかと思われます。帝塚山学院(高等女学校)で英語の講師になったり、ピアノを教えたりしていました。
 
 そんな時、サントリーはウイスキー事業に進出したいと考え、スコットランドの醸造所に「誰か日本に来てくれる人は居ないか?」と打診します。そうしたら、「日本には竹鶴という、ウイスキー造りを習得した最適な人物がいる。大阪に住んでいるんじゃないか」と返事がありました。鳥井は以前うっすらと記憶にあることを思い出し、「お~、あいつか!!」と直ぐに会いに行きます。そして、竹鶴を高額年俸で勧誘。竹鶴はウイスキーを造れることに大喜びし、1923年サントリーに入社します。
1924年(大正13年)、山崎蒸留所竣工。1929年(昭和4年)竹鶴の造った最初のウイスキー「サントリー白札」が発売されます。しかし、日本人には馴染みがないのとアルコール度数が高く強すぎることや、独特の臭いがするので中々馴染めず売れません。鳥井信治郎は売れるウイスキーを造るように、もう少し癖の無い日本人に合う製品にするよう助言します。
 ウイスキーを販売する前年、1928年(昭和3年)、サントリーはビール事業にも参入し、横浜のビール工場を買収します。そこの工場長に竹鶴を抜擢。竹鶴はウイスキーとビールの両方の工場長になり、山崎と横浜を行ったり来たりして頑張っていました。
 しかし、ビールとウイスキーは全くの別物。そんな時、頑張っていたビール会社が突然売却されてしまいます。
「エーッ!」という感じですよね。ウイスキーも自分の造りたい物とは違ってきていました。そして、元々10年間という契約でした(おそらく口約束)。丁度10年経ちましたので、サントリーを辞める決心をします。
 竹鶴は鳥井の長男、鳥井吉太郎をとても可愛がり、ウイスキーの蒸溜の全ての技術を教えていました。もう十分サントリーのウイスキーは吉太郎に任せられると考え、辞めることにします。その7年後の話ですが、残念なことに、1940年・昭和15年吉太郎は33歳の若さで急逝します。竹鶴は自分の弟のように可愛がっていだけに、とても悲しんだと伝えられています。
 元々山崎蒸溜所を造る時、竹鶴は北海道に造りたいと希望したのですが、遠すぎると却下され、山崎に決まりました。そんないきさつもあり、北海道の余市に蒸留所を造りたいと思っていましたので、それを実現することにします。そこで、自分の造りたい物、自分の目指すスコッチウイスキーを造ろうと決心します。資本家を募り1934年大日本果汁株式会社を設立しています。日本果汁で日果・ニッカ.。
 ウイスキーはすぐには売れません。木の樽で3年以上熟成させなければなりません。従って、5年~10年は掛かりますので、先ずはその間にジュースを作って売り出します。なんとか会社を存続させ、ウイスキーを製造販売まで漕ぎ着けています。
 現在の社名は ニッカウヰスキー株式会社
 妻のリタさんは竹鶴政孝の欧州視察に連れ添って、二度故郷に帰っています。主人の竹鶴と仲が良く、羽振りもいいようなので、両親は安心したようです。
 そしてリタさんの晩年、具合を悪くして療養生活をしていた頃、1959年・昭和34年、リタさんが亡くなる3年前には、一番仲の良かった妹が日本を訪れ再会しています。日本ではお姉さんがとても恵まれた環境で生活をしていたので、安心して帰ったようです。よかったですね。

知らぬ間にビール強くなりし妻  二村蘭秋

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 ―― 私見ですが、この頃、ウイスキー蒸溜所はベンチャー企業だと思います。起業には大変なお金が必要だと思われますが、当時そのお金を出資してくれるお金持ちが居たというのがすごいですよね。現在でも、若者がベンチャー企業を立ち上げようとしても、中々大金を出せる人は居ないでしょう。工場や倉庫や住居など沢山の建物や水や道路整備など、数々の付帯工事をいれると、現在のお金に換算すると何百億円かかるか解りません。それに10年くらいはお金にならず、儲けは出ません。商品が売れるかどうかも解りません。だから、出資する方も相当の覚悟が必要だと思われます。そういうことからも、出資者を集めたと言うことは、竹鶴の能力であり魅力であり才能でしょうか。サントリーで働いていたのも良かったのかも知れません。――

 ここではビールの話なので竹鶴政孝の事についてはこれ以上書きません。お知りになりたい方は本でも買って読んで下さい。

 さて、もう一度ビールの話に戻します。

 1973年・昭和48年の世界のビール生産量を見ると、1位アメリカ・2位西ドイツ・3位イギリス・4位ソ連・5位日本 となっています。日本は大躍進です。

 1980年(昭和55年)サラリーマンに「好きな酒は何ですか?」というアンケートが行なわれています。それによると第1位ビール40%、第2位ウイスキー28%、第3位清酒17%となっています。やはり、断トツでビールが1位です。しかし、これにはかなり地域差がありまして、札幌では第1位ウイスキー鹿児島では焼酎が1位になっています。面白いですね。

ビヤガーデン王冠星になりそこね  鷹羽狩行

 1976年・昭和51年、キリンが年間シェア最高の63,8%を記録したと書きました。1967年からの生ビール戦争もキリンはどこ吹く風。キリンラガーが売れて売れて・・・。造れば売れるので、何となく生ビールは後回し。やっと1985年「キリン生ビール」瓶入り(青ラベル)を発売しています。
 1985年のアサヒのシェアは10%を切り、3位で9.6%のじり貧状態。業界4位のサントリーが9.2%台に追い上げてきていましたので風前の灯火。
 翌年1986年のビールシェアは、キリン59.6%、サッポロ20.6%。アサヒ10.4%。サントリー9.4%となっています。アサヒはほんのちょっと持ち直しましたが、それでもじり貧です。朝日ではなく夕日だと、この頃揶揄されていたそうです。王者キリンも少し落ちていますが、実はこれから大変なことになっていきます。

 その時歴史が動いたではありませんが、1987年とんでもないことが起こります。ビール業界に大激震、地殻変動が起きます。
 1987年(昭和62年)落日の朝日が画期的な新商品「アサヒスーパードライ」を発売します。これは社会現象を巻き起こすほどの大ヒット商品になります。造っても造っても売り切れるほどのメガヒットになります。コクがあるのにキレがあるという、今までのビールと違い、喉ごしが爽やかですっきり。それなのにコクがあってキレあるという、今までに無い新しいビール。ネーミングもいいですよね。”スーパードライ”って、なんか革新的な新しい世界を切り開くような、なんとも言えない強烈なインパクトがありました。精密濾過装置で濾過された、生ビール でもあります。


DRY とは ①乾燥した・湿っていない・雨が降らない、②風情がない・ありのまま・そっけない、③辛口・洋酒などの辛口
とありますが、ここでは辛口のようです。

いったい何がどう違うのでしょう。何故ドライなのでしょうか?


ここから、ビール業界はドライ戦争が勃発します。
 アサヒがスーパードライを発売してから14年、2001年アサヒが遂にビール類の売り上げで王者キリンを抜きビール類のシェア1位に躍り出ます。業界3位の低迷企業が一発大逆転。ビール業界がひっくり返る大波乱です。

 いったい、スーパードライとは何なのか?

 DRYビールとは何なのか???


 書いているうちに、大変熱くなり長くなってしまいました。それで、今回はこれくらいにしておきます。
 続きは 次回 「ビール その3」 ということで、・・・、乞うご期待!!
そんな大層なものでは御座いませんが、宜しくお願いします。

札幌の麒麟に朝日SUN鳥井   照れまん

 最後につまんない駄句を載せてしまいました。御免なさい。
ここに書いてある記事は、出来うる限り調べてはいますが、いかんせん素人ですので、間違いや勘違いがあるかも知れません。それに、誤字・脱字もあるかと思いますが指摘されましたら、訂正させて頂きますので,そこのところ ヨロシク・・・・。
 ではでは・・・・。

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カテゴリー: 人物, 俳句・生活 | 4件のコメント

ビール Beer その1(起源から戦前編)

ビアガーデンジョッキ女の手に重き  大橋敦子

 夏の暑い日、仕事終りにビールを一杯キューッと飲むって、本当に美味しいですよね。生き返ったというか、生きてるって喜びが溢れます。都会ではビアガーデンに行くのもいいですね。ホテルの屋上なんかは飾り付けが綺麗で音楽もあったりして、友達と行くのは最高です。女性グループも居たりして、とにかく華やかで賑やかで楽しい場所です。

 最初の句はよく解りますねえ。生ビールのジョッキって大きくて分厚くて、量が多いですよね。か弱い女性には重すぎて、両手で持たないと・・・。重いよねぇ~!!

Appetizers and beer on the table for the football party and watch the football match.

 ビールの発祥ですが、今から5000年くらい前のシュメール人の粘土板にビールを作る絵が描かれているそうです。五千年前に描かれているのですから起源はそれよりずーっと前、6000年~8000年前。もしかしたらそれより古く1万年前の新石器時代には出来ていたかも知れない??と考えられるそうです。シュメール人というとちょっと解りにくいですが、チグリス・ユーフラテスのメソポタミア文明のあたりと言えば解りやすいですね。
 紀元前1792年頃からのバビロン王朝、ハンムラビ王の時代「ハムラビ法典」が出来ます。あの有名な「眼には眼を、歯には歯を」ってやつです。この中にビールに関する事柄が四つあるようです。その中の一つに、「ビールを水で薄めて売った者は水の刑に処す」とあるそうです。これは、ビールを薄めて売ったのがバレると、橋の上から川に放り投げられるという刑。運が良ければ岸まで泳ぎ着けたかも知れませんが、下手すると水死する者も出たでしょうね。かなりキツイ刑です。この頃すでにビールが商売にされていたようなので、かなり古くからビールは定着していたようです。


 エジプトでもビールは作られ、ピラミッドを造る人達も飲んでいたとか。それで、エジプトはビールの起源はエジプトだと主張しているようです。
 中国もビールの起源を主張し、7千年前にはその痕跡があると発表しています。西安郊外から窖(あなぐら)貯蔵の跡が多数発見されているそうです。ビールに近い物が造られていたのかも知れません。
 大昔のことなので、中々難しいところですが、シュメール人の粘土板の絵が最も古くて確実なもののようなので、ここではそれを採用しました。

 エジプトや中近東辺りで飲まれていたビールが、やがてヨーロッパへと伝わり広まります。 

 中世のヨーロッパでは、主に修道院で作られていました。ビールはアルコールが含まれている為、植物の色んな成分が溶けやすい。それで、薬草やハーブなどを入れて造っていた。修道院によっては、中に入れる薬草が違っていて、それぞれ秘伝があり、違った効能をうたって販売されていました。それで、ビールは薬用酒としての飲み方が一般的だったようです。
 一般人がビールを作るのは難しかったようですが、ドイツでは市民が作り始めます。それがどんどん広まり、やがてギルド(組合)が出来ます。
 1516年バイエルン公ウイルヘルム4世は粗悪なビールが作られるのを禁止するため、『ビール純粋令』を発令します。ビールは 水と麦芽(Malt モルト)とホップ しか使ってはならないというもの。
 その頃までに造られていたビールは上面発酵(Ale エール)エール(エールビール)と呼ばれていました。15世紀中頃、ドイツのバイエルン地方でそれまでの造り方と違う、新しい下面発酵の技術が開発されます。冬にビール樽を洞窟の中に入れ、雪や氷で満たして冷やす低温貯蔵熟成法貯蔵をLager ラーゲル・ラガーと言い、これがラガービールと呼ばれる所以です。ドイツの一地方のローカルビールでした。

 1842年チェコでもラガービールが造られ始めます。ドイツの多くが硬水なのに対し、チェコのピルゼニ(ピルゼン)地方は軟水。その為、琥珀色の透明なとても美しいビールが出来上がります。これがピルスナービールと呼ばれる一つのスタイルになります。

左の写真 元祖ピルスナーの「Pilsner Urquell ピルスナー・ウルケル」

 後の話ですが、日本も軟水なのでこれが合っていたのでしょう。殆どがピルスナースタイルのラガービールになっていきます。

 日本のビールですが、1613年イギリス船により初めてビールが持ち込まれたとあります。江戸時代中頃には、長崎の出島で通事(通訳)が飲んだという記録も残っています。「びいる」或いは「ヒイル」と書かれていて、オランダ語の Bier ビールから来ているようです。江戸時代に麦酒を飲んだ人の感想記録では「何のあぢはひもなく御座候」や「おびただしき泡を立てしもの」、「馬のいばりの様な苦い酒」などが残されています。面白いですね。
 ビールが作られるのは明治になる少し前の幕末になります。日本で最初に造られたのは1812年長崎の出島でオランダ人が造ったとあります。
 日本人では1853年、蘭学者川本幸民 かわもとこうみん(1810~1871年)が蘭学書を元に作ったようです。桂小五郎・大村益次郎・橋本左内らが試飲したそうです。どのような味だったのか、記録を探したのですが見付かりませんでした。
 川本幸民は chemistry ケミストリー「化学」と訳した人で日本の化学の祖。東京大学や東京外国語大学の前身「蛮書調所」ばんしょしらべしょ の教授。

 ビール会社としての醸造は1869年(明治2年)横浜の外国人居留地でオランダ人が造った「ジャパン・ブルワリー」が最初とされています。翌年、横浜では他にもアメリカ人が「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を設立。この二つが色んな変遷をたどり合併。1885年グラバー岩崎弥之助渋沢栄一等の出資を受け、「ジャパン・ブルワリーリミテッド」となります。この会社が1888年明治21年キリンビールを発売。これが後の〈キリンビール〉になります。

キリンの初期のマーク

 1876年(明治9年)北海道札幌に官営ビール「開拓使麦酒醸造所」が設立されます。
この時、醸造の責任者になったのが中川清兵衛。この人の経歴がちょっと面白いので書いてみます。
 中川清兵衛・なかがわせいべえ(1848~1916年)。現新潟県長岡市の出身。藩の御用商人の家柄なので、かなり裕福だったと思われます。16歳で横浜に出ます。それが何を思ったのか、17歳で密航を企て、まんまと成功します。1865年(慶応元年)一人でイギリス、ロンドンに渡ります。密航と言えば当時は重罪。死罪になるかもしれない大罪。長州の吉田松陰が1854年(嘉永7年)密航に失敗し、その後処刑されています。処刑が1859年(安政6年)ですからその僅か6年後に密航しています。中川はロンドンで下働きや皿洗いなどで食いつないでいましたが中々思うような職に付けません。そうこうしているうちに7年が経ちフランスからドイツへと渡っていました。
 ここで偶然ですが長州の青木周蔵と出会います。青木周蔵は藩命により留学していました。青木は4歳年下の中川の勇気に驚き、魅力を感じたのでしょう。可愛かったのかも知れません。中川に「ビールの勉強をしたらどうか!」と勧め、ベルリンの醸造所を紹介してくれます。そこの醸造所で2年2ヶ月修行し、修業証書を貰います。そこで中川はすぐにドイツ公使になっていた青木に会いに行き、修業証書を見せます。青木は黒田清隆に「中川というドイツでビール醸造を勉強した者が居るが、もし必要であれば使ってやってほしい」と紹介状を書いて、送ってくれます。それが又偶然ですが、黒田は北海道に醸造所を造ろうとしていた矢先なので「これはいい」と二つ返事でOKします。それで、中川は明治8年1875年帰国し、開拓使醸造所の技術開発者として赴任します。翌1876年第1号ビール「冷製札幌ビール」が発売されます。これが後の〈サッポロビール〉になります。 

 青木周蔵(1844~1914年)という人物を殆どの方はご存じないとと思います。それで、ちょっと書いてみます。私の住む山口県大島郡和田村青木家です。ここに養子として入りました。幼名三浦團七、小野田市出身。実家は医師の家系。青木家も代々医師の家系。義理の父になる青木研蔵は後の宮廷大典医。義理の叔父青木周弼は当時毛利家の御典医をしていました。医師同士の繋がりで知己があったのでしょう。頭脳明晰を買われ、青木家の養子に迎えられました。養子後、青木周蔵と改名。長崎に留学し、医学やオランダ語を学んでいます。伊藤博文の3歳下になりますが、長州藩内では藩主の侍医の家系ですから一目置かれる存在だったと思われます。幕末にはヨーロッパに留学。ベルリン留学中、医学から政治学に転向することを山縣有朋に認めさせています。その後、語学が出来ることから重宝され、外務省のドイツ公使。プロイセン貴族の令嬢エリザベートと結婚。明治22年に外務大臣になっています。明治政府の条約改正の中心人物。また、青木周蔵は若者に専門技術を身につけるよう推奨し、その道のエキスパートになった若者が何人も育っています。中川清兵衛もその中の一人。
 ちょっと話は逸れますが、ペルー大使館襲撃事件というのを覚えておられますでしょうか。1996年ペルーのリマで日本大使館が襲撃・占拠され、600人が人質になった大事件。4ヶ月後フジモリ大統領の命令でペルーの特殊部隊が突入し事件は解決。その直後、助け出された日本大使の記者会見が放送されていました。椅子に深々と座り、たばこを曇らせながらTVインタビューに答えて居る姿がとても印象的でした。あの青木盛久在ペルー日本大使が青木周蔵のひ孫にあたります。

 話が逸れましたので、もう一度札幌開拓使麦酒醸造所の話に戻りますが、明治政府は官営事業の財政負担が大きいことから、民営化したいと考え、札幌麦酒を払い下げることにします。そこで、五代友厚等のグループに払い下げを決定します。ところが、どこからか情報が漏れ、新聞にすっぱ抜かれ、大疑獄事件へと発展します。薩摩の黒田清隆が薩摩の五代友厚に超破格の安値で下げ渡したと・・・。それで、この話はご破算になり、その後札幌開拓使麦酒はゴタゴタが続きますが北海道庁に移管されます。そして明治19年、北海道庁は結局、大倉財閥などのグループに払い下げます。大倉財閥と言えば現在はホテルオークラ帝国ホテルで有名です。翌年に渋沢栄一なども資本家に加わり、「札幌麦酒株式会社」が設立され、「サッポロビール」が売り出されます。ラベルに北極星が描かれています。
 蛇足ですが、帝国ホテルは1977年、あの小佐野賢治氏の国際興業の所有となりました。しかし、現在は三井不動産が筆頭株主になっています。

さっぽろビール工場跡の春の雪  杉浦規子

 日本人によるビールの製造は1872年明治5年、大阪の渋谷庄三郎しぶたにしょうざぶろう(1821年~1881年)が売り出した渋谷ビールが最初とされています。大阪中之島の醸造所で生産。それで、彼が「ビール醸造の元祖」とされています。渋谷の実家が綿卸商であり酒造業もしていて、彼は綿産業の「頭取並」の要職に就いていたので、多少余裕があったのでしょうか。手を広げたいと思ったのでしょう。しかし明治14年、渋谷の死と共にビール醸造は終ってしまいます。

 渋谷ビールとは別に、大阪府吹田市で鳥井駒吉により1889年明治22年大阪麦酒会社が設立され、明治25年「アサヒビール」が発売されます。これが後の〈アサヒビール〉です。鳥井駒吉は南海電車の元になる阪堺鉄道の創始者の一人です。
 鳥井商店・壽屋、後のサントリー創業者も鳥井信治郎で鳥井姓ですが、駒吉さんは堺市出身、信治郎氏は大阪市東区現在の中央区となっており、調べた限りでは親戚という記録は見付かりません。名字は同じですが、恐らく他人なのでは無いかと思われます??

 明治20年、東京では日本麦酒醸造会社が設立されます。明治23年「恵比寿麦酒」を発売。これが後の「ヹビスビール」になります。ここは三井財閥が出資しています。
 明治24年ヹビスビールは業績不振でした。そこで、てこ入れする為、三井財閥から三井物産の馬越恭平が重役として送り込まれます。馬越はたった1年で業績を軌道に乗せ、黒字にします。
 馬越恭平は実業家としてとても有名な人物。実業家であり、衆議院議員・貴族院勅撰議員、岡山に井原鉄道などを建設した人なのですが、岡山県やビール業界以外の人はあまり知らないかも知れませんので、少しだけ書いてみます。
 馬越恭平・まこしきょうへい(1844年~1933年)現岡山県井原市に生れる。実家は医者の家系。井原市にある興譲館に通う。その後、勉強の為に上阪。医者になるより商売・貿易に興味が沸いたらしく、大阪の豪商「鴻池」に丁稚として入ります。とても優秀だったようで、暫く後に播磨屋の養子に迎えられます。しかし、彼はどうしても東京に出て貿易関係の仕事がしたいと思い、周囲の大反対を押し切り、養子を解消し東京に出て行きます。東京では井上馨の会社に入社することが出来ました。この会社は暫くして廃業するのですがそれを引き継ぎ、新たに三井物産が設立されることになり、明治9年新会社三井物産に入社。翌明治10年西南戦争が勃発。馬越恭平は政府軍の物資輸送の業務に携わり、三井財閥に莫大な利益を持たらしています。そういうことから、馬越はトントン拍子に出世して三井物産の常務理事・専務理事を兼任するようになります。そんな時、日本麦酒(ヱビス)が業績不振に陥っているので、多額の出資をしている三井財閥が三井物産の馬越恭平を重役として派遣しました。明治25年、馬越の手腕によりたった一年で業績を回復。その後どんどん売り上げを延ばし、明治29年にビールのシェア1位になり、その後7年間一位を堅守します。馬越はビール会社に専念するため三井物産を退職。明治31年衆議院選挙に岡山5区から立候補し見事に当選

 明治中頃、ビール会社が乱立し、100社をはるかに越えるほどになります。そんな時、明治34年・1901年、麦酒税法が制定され、ビールに対し税金が掛かるようになり、醸造も厳しくなります。それにより小規模な醸造所は立ちゆかなくなり、倒産や合併を繰り返すようになります。130社近くあった会社が僅かな間に、23社に激減しています。
 衆議院議員になっていた馬越は政治的な活動も行い、ビール業界の窮状を訴えます。過当競争が激化していることを排除し、資本の集約化、海外進出を目指さなければならない事などを力説。そのことを内閣や政治家、そしてサッポロやキリンに関係している渋沢栄一などに連携するよう談合します。根回しが功を奏したのか、合併勧告を引き出し、明治39年1906年、札幌麦酒(サッポロ)・日本麦酒(ヹビス)・大阪麦酒(アサヒ)が合併、大日本麦酒が設立されます。初代社長に大阪の鳥井駒吉が推されましたが健康不良を理由に辞退し、馬越恭平が初代社長に就任します。その後、大日本麦酒は国内シェア7割を占め、外国にもどんどん進出し、販路を広げ工場を建設しています。1914年ヨーロッパは第一次世界大戦が始まり疲弊していき、1920年アメリカでは禁酒法が施行されます。これは日本にとっては追い風です。今までヨーロッパやアメリカ勢が占めていた場所に日本が輸出できるようになります。そういうことから、日本のビールがどんどん売れるようになり、世界でも有数のビール会社に成長させました。それで、馬越は「日本のビール王」「東洋のビール王」と呼ばれるようになります。

 現在中国でトップクラスの人気の「青島ビール」(チンタオビール)世界第6位の会社は、元々ドイツ人が1903年に造った醸造所ですが、第一次世界大戦後1919年に大日本麦酒が引き継ぎ、大会社に育て上げました。  
 韓国でも一番人気の「hite」ハイトビールも、元は大日本麦酒が工場を造って生産していたものです。韓国のもう一つの「OBビール」Oriental Brewery Co,Ltd. は元々麒麟麦酒が造ったものです。

      右上の写真は、1908年頃の大日本ビールのポスター 

 1939年ヨーロッパは第二次世界大戦に突入。日本への大麦(ビール麦)とホップの輸出が困難になります。日本では、ビール麦やホップの栽培はされていましたが、とても数量は足りません。そして、日本も日中戦争から太平洋戦争へと突入していきます。
 ビールは贅沢品。それで、統制品になり、原料も配給制になります。生産が出来ず閉鎖する醸造所も出てきます。そういうことからガクンとビールの生産量は減り、昭和14年のピーク時に比べると、昭和19年・20年には4分の1の生産量になります。ビールの商標も禁止され「麦酒」としか表示出来なくなります。

 そして、第二次大戦は終了。連合国軍の GHQ が入ってきます。GHQは軍国主義から民主主義へと大改革を行なおうとします。財閥解体過度経済集中排除法など、ビール業界にもその嵐が吹き荒れようとします。
 戦前には、大日本麦酒と麒麟麦酒は販売協定を結んでいたため、この2社だけでおよそ9割のビール販売を占めていました。これは寡占状態、独占もいいとこです。実はカルテルを結んでいました。それに、キリンは三菱大日本は三井や大倉・渋沢などの財閥が深く関わっています。これは大問題です。
 そこで、GHQは大日本麦酒を4分割麒麟は2分割の計6分割案を考えていたようです。

 さてさて、泣く子も黙るGHQの登場に、日本のビール業界はどうなってしまうのでしょうか??

 大変話が長くなりましたので、この辺りでちょっと休憩。喉が渇きましたのでビールを一杯。
 戦後のビールの続きは、 その2 にします。どうぞ宜しく・・・・。

暫くは泡が蓋なるビールかな  照れまん

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マスク mask

マスクして瞳美人となりにけり  照れまん

 コロナウイルスが流行って三年。夏でも冬でも、一年中マスクをするようになってきました。こうなってくると、マスクの季語はいつ?と聞かれるとちょっと困ってしまいます。
マスクは「冬の季語」ですが、「どうなのよ!」てな感じになってきました。
 2019年にコロナ(COVID-19)) が発生して以後、2020年日本にも侵入してくるとマスク着用が義務付けられました。手洗いとマスクは感染を予防する最も有効な手段。

 日本ではコロナ以前から、多くの人がマスクを着用していました。冬は流行性感冒の予防の為。そして春には花粉症黄砂・PM2、5などの微粒子の為。それから子供の頃、給食当番の時普通にマスクを着用していました。
 それで、日本人はあまり抵抗感無くマスクを着用しています。コロナ禍の2022年9月現在、屋外ではマスクを着用しなくても良いとお達しが出ても、外出時には夏の暑い中でも秋でも、多くの人がマスクをしています。

 第一次世界大戦中(1918~1920年)にアメリカやヨーロッパでスペイン風邪(インフルエンザ)が大流行します。日本にも1918年4月頃上陸し猛威を振います。それで、マスクの着用運動が起きます。その頃の絵に黒いマスクをしているものがあります。当時から黒いマスクもあったったんですね。

大正9年(1920年)のポスター


 その後、1923年関東大震災が起きたことにより、多くの人がマスクを着用するようになりました。それ以後日本人は予防のため、人に移さない為、塵埃の為にマスク着用が根付いていきます。

 2000年前後より日本を訪れた海外の観光客が日本人の多くがマスクをしているのを見て「ギョッとした!」とか「気味が悪い」、「日本では悪い病気が流行っているのか?」など不安視する声が多くあったようです。しかし、日本では「風邪やインフルエンザの予防の為、また人に移さない為にマスクを着けている」と聞いて安心したなどといわれました。
 その頃、日本を観光に訪れた人がコロナのパンデミックが起きた時、
「日本人が何故マスクをしているのかが、今頃理解できた」とか、「日本人ってすごいね!」などというのがネットに多く書き込まれていました。
 しかし、欧米や南米の人達ってマスクをひどく嫌がります。マスク着用が義務付けられたり、マスクをしない人には罰金が課せられたりしましたが、あちこちで反対運動が起きました。
「マスクをするかどうかは個人の自由。これは憲法に保障されている」とノーマスクで大規模なデモが行なわれたりしました。
 日本人から見ると、とても危険な行為ですし、何故そんな簡単なことが厭なのかと思います。それにしても、西欧の人は何故あんなにマスクを嫌がるのでしょうか??

そこで、マスクのことをちょっと調べてみました。マスクの語源は諸説あるようです。

マスクの語源 1:アラビア語  maskharah  道化者
       2:イタリア語  maschera  仮面・道化者
       3:ラテン語   mascus   幽霊
この他に、ゲルマン祖語maskwo(網)や古英語などが書かれています。アイスランド語・オランダ語のメッシュも同系語と書かれています。

mask マスク を私の持っている「ジーニアス英和辞典」で調べてみました。

mask 道化者が原義
1:仮面・覆面(保護・偽りの象徴)、防毒・手術・防護用のマスク、古典劇の面・石膏で作った面、水中めがね、フェンシングのマスク、ガスマスク
2:覆い隠すもの、ごまかすもの・見せかけ 
3:写真・窓などの保覆い覆い
4:仮面劇・仮面舞踏会、仮面を着けた人
5:(キツネなどの)顔・頭部

ベネチアのマスク・仮面

mask 仮面、の歴史は非常に古いようです。エジプトのツタンカーメンの黄金のマスクは有名です。3300年以上前に、あんなにも素晴らしい完成されたマスクが出来ています。世界最古の仮面は約9000年前の石仮面が、イスラエルで幾つも発掘されて居るそうです。この石仮面はどのように使われたかは、まだ解明されてないそうです。そういう事から、仮面の歴史は新石器時代か旧石器時代まで遡るのではないかとも考えられているようです。
 おそらく祭祀や儀礼やお祭などで使われていたのではないかと・・・・。
 日本でも5000年前の縄文時代の仮面が発掘されているそうです。

仮面 mask にはそのような古くて長い歴史があります。仮面をする事で別人格になったり、未知の人になったり、自分を隠すことが出来たり、道化者になれたり、自己を覆い隠したり・誤魔化したり、色んな風に使われたのでしょう。祭祀や儀式、お祭りの中で使われるのはとてもいいのですが、それ以外に使われる時は、ちょっと具合が悪いのです。悪事とかを働く時に使われると困ります。人相が解りませんし、人物を特定できません。それで、マスク着用禁止令という法律が出来た地域もあったそうです。そういうことなどから悪いイメージが積み重ねられていき、悪事を働く時にするものや悪者がするというイメージが浸透していったのでしょうね。
 それで、西欧では mask 着用を極力厭がるんでしょう。何となく理解出来ます。

 話は変わりますが、コロナ発生以後、日本でもマスクに関する色んな事がありました。そんな中から二つのニュースを取り上げてみます。
 一つ目は広島県呉市の市会議員が北海道からの帰り、釧路空港で飛行機に乗る際、mask着用をお願いされたのです。そうしたら「マスク着用の強制は憲法違反だ!!」として着用を拒否。それで、機長は乗客の安全と機内感染防止を考慮し、その二人を飛行機から降ろすことに・・・。それで、飛行機は1時間10分後れて出発する事になりました。その呉の市会議員はどうやって広島に帰ってきたのでしょうか?そこのところはニュースで放送されなかったので、別の飛行機に乗ったのか、その飛行機にマスクをして乗ったのか、又は電車で帰ったのかは解りませんでした。釧路から広島は遠いですよ??

小太郎さんからお借りした呉軍港の写真

 呉の市議のニュースが全国放送で流れた時、広島のTVで呉市の市民のインタビューが流れていました。それが面白いのです。


Aさん「そがぁ~なことをゆうちゃあ、いけまぁ~が~!」
Bさん「はあ、帰ってこんでもええよねえ!」
Cさん「泳いで帰ってくりゃあええがぁ。黒潮に流されて択捉島に流れ着いたりして・・・。そこで、マスクをせんじゃのどうじゃのゆうたら、すぐ銃殺よねえ~!日本は平和で良かったねえ!!」
笑っちゃいますよね。その後、その市会議員は呉市の議会に出席していましたが、その時はちゃんとマスクを着用していました。「何で???」
 議会では着用が義務付けられているそうです。その議会では議員辞職勧告決議案が出され、その議員さん以外の議員全員賛成で可決。しかし、議員は辞職はせず。飛行機会社を相手取り、広島地裁に提訴。1円で損害賠償請求をしたようです。
 どうなっちゃって居るのでしょうか?そんなことに労力を使うんだったら、呉市民の為にもっといいことをすればいいのに・・・・。
 下の写真のような素晴らしい『大和ミュージアム』もありますので、ちょっと残念な気がします。

呉市 大和ムージアム

 二つ目は、「アベノマスク」。マスク不足により、国民一世帯あたり2枚の布製マスクを配布するというもの。予算が初期費用260億円。
 配布する頃にはかなりマスク不足が解消されていて、緊急性は無くなっていました。それで、「そんなにも費用を掛けて、どうするの!!」ってな感じに。急遽発注したためか、不良品や粗悪品も相次ぎ、大不評。そのまま何となく有耶無耶に・・・。ところが、その後暫くして8000万枚も配り残りがあったと言うので、またまた大騒ぎに。倉庫の保管費用が馬鹿にならないとか・・・。結局、希望者に無料配布したんですよね。そういうことで保管費用や配送費用などを含めて、最終的には予算はどれだけ使われたのでしょうか?
 あるサイトでは随意契約だったのでマスクの値段の高騰、その他の保管・配送費用などを含めると543億円が浪費されたと書かれた記事もありました??「エーッ本当、倍以上になってんじゃん!」ってな感じ。すごい金額ですね。これが正しいのかどうかは私には解りませんが、かなりの金額が使われたのでしょう。

アベノマスク

 しかし、マスクが日本では生産して無くて、中国やベトナムに依存していたと言うのに驚いてしまいました。こんな物まで、中国に依存しているのかと愕然とした記憶があります。
 この話も今では懐かしいですね。

 安倍晋三元総理、あっという間に凶弾に倒れて、帰らぬ人となってしまわれました。山口県民は大ショック。
「こんな平和な日本なのに何で~~!!」と思わず絶句してしまいました。合掌(★∪★)

 mask 仮面 には長い長い歴史があるようですが、それに比べると布マスク医療用マスク(surgical mask)の歴史はかなり浅いといえそうです。
 布製のマスクを最初に発明したのは、Leonardo da Vici レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)だと2つのサイトに書かれていました。
「え~、ウッソ~ホンット??」と他の本や伝記を探してみたのですが、スケッチや記事を見つけることは出来ませんでした。ダ・ヴィンチは画家でありながら科学者・工学者であり、土木建築士であり、新兵器開発者であり、解剖学者でもありますので、さもありなんとは思っています。個人的なサイトですが堂々と書かれているので間違いはないと思うのですが、どうなんでしょう??一応そうなんだろうとは思うのですが、私には判断しかねますので、疑問符としておきます・・・??
 ダ・ヴィンチの発明以後、鳥の嘴のようなマスクが流行ったりしましたがその後、1800年代後半、産業革命の時代に炭鉱や工場の粉塵の為にワイヤーの付いた布製maskが考案され使用されるようになったようです。日本にはそのマスクが明治の初期頃導入され、主に炭鉱や工場で使われたようです。
 日本人の発明によるマスクは島根県の石見銀山で江戸時代末に作られた物が最初だそうです。針金と布で作られた立体マスクだそうです。

 明治期の宣伝文(コマーシャル)に、レスピラートル respiraltll 「呼吸器」マスク が登場しています。私は レスピラートル と言う言葉を知りませんでしたから、明治にその外来語が使われているので驚きました。
 その後、インフルエンザの大流行によりガーゼマスクが普及することになります。

muskmelon

muskmelon

 ちなみに、マスクメロンですが、私はてっきり網目模様なのでマスクなのかと思っておりましたが違っていました。スペルが違います。
musk ムスク 麝香の香り から、麝香のような豊穣な香りを放つメロンと言うことだそうです。日本語の発音ではムスクではなくマスクと発音するのでちとややこしいですね。
日本のマスクメロンは1925年(大正14年)にイギリスから輸入された『アールス・フェボリット」と言う品種。それを長い間かけて品種改良したのが現在の日本のマスクメロン、だそうです

ーーーー HーーAーーIーーKーーU ーーー 

 さてさて、このあたりで俳句にいきましょう。
 俳句では当然「冬の季語」三冬です。これは、以前から使っていた感冒の予防や冷たい空気や乾燥から喉を守る為、又は北風で埃が舞い上がりますので塵埃の為など、コロナ以前の従来の使い方による季語です。
 コロナ禍以後は一年中マスクをするようになりましたので、夏は「夏マスク」、秋は「秋マスク」となるでしょうか。あるいは他の季語とマスクを組み合わせて詠まれるようになるのかなと思ったりしています。「マスク」の季語は意外と新しく明治期の俳句が見付かりません。それで、昭和期の最も古いと思われる句から載せて見ます。

  マスクして我と汝でありしかな  高浜虚子 

  マスクして我を見る目の遠くより   虚子

上の二句は1937年(昭和12年)『五百五十句』所収 最初の句は「われとなんじ」と読みます。

  うち笑める眉目秀でゝマスクかな   虚子

  マスクしてマスクしている人にあう  細井啓司 (昭和初期)

  マスクしてしろぎぬの喪の夫人かな  飯田蛇笏 (昭和22年所収)

  福耳を引つぱつているマスクかな   下村非文

下村非文(しもむらひぶん)1902年(明治35年)~1987年。福岡県出身。東京大学経済学部卒。台湾銀行に勤務。俳句は松本たかしに師事。終戦後、関西の証券会社の要職を歴任。俳誌「山茶花」の主宰になる。
上揭句はとても面白い。マスクをしていると耳が痛くなります。それを、福耳を引っ張って居るというのですから、思わず微笑んでしまう。俳諧味溢れる素晴らしい句です。

  待つ人のあるべきマスク深くせり   岸風三楼

  見舞妻喰べよと一語マスクしつ    〃

  没る日黄に防毒マスク脱ぎて嗤ふ   〃

岸風三楼 本名 岸二三男 1910年(明治43年)~1982年。岡山県生まれ。旧制関西(かんぜい)中学校、関西(かんさい)大学法学部卒。通称関大。関西にはもう一校関西の名の付く大学があります。関西学院大学、通称関学。こちらはカンセイガクイン大学と読みます。関西と書いてカンゼイやカンサイ、カンセイなど日本語って本当に難しいですね。岡山の関西高校は甲子園でよく見る有名校です。
岸氏は中学時代に俳句を始める。1929年大阪逓信省に入省。その頃より「ホトトギス」に投句。皆吉爽雨・山口誓子の指導を受ける。その後、富安風生に師事。1934年「京大俳句」に入会。これが後にとんでもないことになります。1940年頃より特別高等警察、通称特高により次々と逮捕されると言う京大事件が起こります。治安維持法によるものです。平畑静塔・渡辺白泉・西東三鬼・秋元不死男ら、他多くの俳人が刑務所に入れられました。岸風三浪も特高に連行されましたが、当時俳句の師匠の富安風生が逓信省の高級官僚だったため尽力し、難を逃れたと言われています。しかし、多くの俳人は拷問を受け、性格が変ってしまった人もいたと言いますから、どんなにひどい拷問を受けたのでしょう。俳句をして何で逮捕されるのか?と不思議に思いますが、詩人だけで無く、小説家や画家演劇俳優など芸術家も逮捕されています。ついほんのちょっと前の出来事ですが、遙か昔のような気がしてなんとも言えない感傷に陥ります。そういう時代があったと言うのがすごいですよね。そんなことを思えば今はとても平和で、自由奔放に自由自在に作っても、誰からも非難される事はありません。本当に言い時代になりました。
岸風三楼の代表句、「手をあげて足をはこべば阿波踊り」 があります。情景がパーッと目に浮かぶ名句です。

  腹の立つ人にはマスク掛けて逢ふ  岡本眸

岡本眸氏は岸風三楼門下。私はその昔、NHK俳壇の岡本眸氏の時間をとても楽しみに見ておりました。お優しい人で思い遣りがあり、笑顔が柔和で素敵な人でした。そんなお方がこんな句を作っておられるので思わず嬉しくなってしまいます。

  自転車に乗ってマスクの心地よさ  照れまん 

 

  去年今年マスクの内に息かさね   杉山久子


杉山久子氏は山口県山口市在住の女流俳人、(1966年~ )。結社「星」を経て、「藍生」・「いつき組」所属。とても勉強熱心で真摯に俳句に取り組んでおられます。活動的でもあり、「季語の現場に立つ」を実践されています。若い頃、四国八十八カ所を徒歩で完全走破されています。現在、山口新聞俳壇選者。上揭句の季語は新年の季語「去年今年」になります。

  人の日を毛羽立ちて不織布マスク  杉山久子

  わらわらと視察団全員マスク    杉山久子

不織布(ふしょくふ)とは繊維を織らずに絡み合わせてシート状にした物。不織布の原料はガラス繊維・ナイロン・ビニロン・ポリエステル・ポリプロピレン、その他多くの繊維材料が用途に応じて使い分けされている。1920年代にドイツの会社が作り出した。日本では1956年に製造が始まったようです。不織布マスクは三層構造で外側と内側の不織布の中央にフィルター不織布が挟んであるそうです。

二句目は現在のコロナ禍の句のようです。多くのお偉いさん達がマスクをして、ぞろぞろと視察をしているのがとてもユーモラスで面白い。その昔私が詠んだ句に「颱風禍ゴム長履きて大臣来」照れまん 、19号台風(1991年)の時を思い出していました。

  手袋外すはマスク外すため  田中惣一郎

杉山久子氏と田中惣一郎氏は芝不器男俳句新人賞を受賞しています。4年に一度のかなりハードルの高い賞。杉山氏は2006年第二回芝不器男俳句新人賞を受賞。そして、2018年第五回芝不器男俳句新人賞特別賞を田中惣一郎氏が受賞されています。
杉山久子氏は平成25年(2013年)山口県芸術文化振興奨励賞を受賞されています。その時、受賞の様子がローカルTVで流れましたが、若草色のお着物がとても綺麗で似合っていて素敵でした。

  白・ピンク・柄・黒・立体マスクかな   照れまん

  季の語よりはずされそうなマスクかな   パピ

この俳句、現在のコロナ禍で一年中マスクをするようになってきたので、「季語から外されるんじゃないの?」と心配している句。「季の語」と言うのが何ともおかしくて思わず吹き出しそうになる句。俳号も変っていますね。

  マスクしているのに増える新感染  与太郎

この句もコロナ禍以後の句。「新感染・シンカンセン」という言葉が妙に刺さります。コロナウイルスがまるで新幹線のような速さで広がっているような感じがして実に面白い。思わず「座布団一枚!!」と言いたくなります。

  制服とマスクで我が子見つからず   小林良枝

この句もコロナ禍中の句でしょうか。行事か式典か?母親のまなざしが思い遣られます。この句も「そうだそうだ!」と納得する気持ちのよく解る共鳴句です。

従来の俳句の季語としてのマスクの句を少しだけ載せておきます。

  眼はうごき眉はしづかにマスクの上   山口誓子

  マスクしてをる人の眼を読みにけり   上野 泰

  針ほどのすきもみせざる大マスク    名見崎新

「目は口ほどに物を言う」と言いますから目だけで相手の心理を読んでいる。三句とも、人の内面を詠んでいる素晴らしい句です。

「マスク」と言うのはとても俗な季語。それだけに俗を俗として詠むか、俗を雅に変える事が出来るか、そのあたりがとても面白い季語です。

 マスクの句は沢山ありますので出来るだけ多く載せたいのですが、限りがありますのでこれくらいにしておきます。

  オーケストラ弦と打楽器はマスク   照れまん

我が家の孫

 従来の冬の季語「マスク」を詠んだ句と、コロナ禍以後に詠まれたマスクの句をほんの僅かですが選んで載せて見ました。それぞれ、独創的で面白い句ばかりですね。

 最近、俳句の世界も著作権を色々言うようになりまして、それでここでは『日本大歳時記』やネットに掲載されて居るので大丈夫だろうなと思う句を選んで掲載させて頂きました。

  マスクしてまで合唱コンクール  照れまん

 今回は冬の季語「マスク」を載せて見ました。まだまだ書きたいことは一杯あったのですがこれくらいにしておきます。とても長い記事になりましたので誰も読まないだろうなと思いながら書いてました。
 私は6年くらい前に体調を悪くして俳句は辞めてしまいました。それで、今は俳句を作っては居ません。今回の私の作った俳句は、最初に掲載した「瞳美人」の句のみで、40年近く前に入院中に看護婦さんを詠んだ句一句しかありませんでした。他の五句はこの記事をちょこっとづつ書いていたので長くなって仕舞い、半年も書き足していましたので、その途中にポコポコと出来てしまった最近の句です。コロナ禍以後の句になります。それで、「俳句を辞めているけど、まあいいかっ!」ってな感じで無理矢理はめ込みました。拙句で申し訳御座いません。ペコリ(★∪★)!!
 それから、誤字脱字、文章の間違いや変なところが御座いましたら訂正致しますので、そこのところは宜しくお願いします。

 ではでは・・・・。

六人のお地蔵様もマスクして  照れまん

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俳人 松井童恋 その12(最終回)

俳人松井童恋氏の思い出 その12 「句碑」

鮟鱇の口を大きく偈を吐きぬ  松井童恋

冬の蠅一匹のこる小石かな     童恋

童恋さんのお住まいだった集落 地家室(じかむろ)

 2002年に奥様が亡くなられた時、童恋氏85歳。57年間も苦楽を共にされたのですから、悲しかったろうと思われます。しかし、奥様の亡き後、それまで以上に俳句の啓蒙活動に邁進されました。

 童恋さんは俳句結社との交流も盛んに行なわれていました。下関市の中村石秋のち池田尚文氏主宰「其桃」徳山市(周南市)の久行保徳主宰「草炎」下松市河村正浩主宰「山彦」。それから、柳井市の句会には毎月出向かれておられました。県外では、愛媛県宇和島市の井上論天主宰「加里場」。それから、伝統俳句協会の会員にもなっておられ「ホトトギス」にも投句されていました。伝統俳句協会は毎年立派な俳句カレンダーを発売しており、それを童恋さんが私に送って下さいました。カレンダーには童恋さんの句が掲載されていました。

 それから、山口県の俳句大会を大島郡周防大島町(屋代島)に招聘するよう活動を始められます。大島郡は瀬戸内に浮かぶ小さい島の貧乏な郡。県の大会などを開くのはとても難しい。しかし、童恋さんを中心に大島郡俳句協会のメンバーやお弟子さん達が一丸となって協力し合い、大島郡で開催できるよう努力されました。それで、2009年に開催されることが決定。句の募集や会場やホテルの予約、バスの手配、アトラクション、協賛企業招致など、色々なことを準備。数々の問題をクリアーし、無事開催にこぎ着けました。
 2009年11月15日、山口県俳句大会大島郡大会は童恋さんが大会の委員長を務められ、見事大成功に終えることが出来ました。

 平成二十一年 第三回 山口県総合芸術文化祭  第46回山口県俳句大会 
 山口県以外の人は山口県の俳句大会など見ることは無いと思いますので、ほんのちょっとだけ俳句を紹介します。山口県の選者の選んだ句も童恋さんを含めて少しだけ紹介します。これは2009年の大会の句です。

山口県知事賞
  躰から先にかけ出す祭足袋     光市  竹本チヱ子

山口県教育長賞
  避難所の眠れぬ団扇また動く    山陽小野田市 三浦裕子

毎日新聞社賞
  春光やいのちはみんな濡れて生る  山口市 中井秀穂

大会賞
  役終えてみんな焼かるる梨袋    美祢郡 高山菱湖

松井童恋選 特選
  神泉に鎖をかけて鵯渡る      下関市 和泉屋貴美子

中村石秋選 特選
  川あかり届き夜干しの鵜匠の衣   下関市 迫田白庭子

河村正浩選 特選  
  峡四五戸瑞穂の国の青田風     山口市 多田みちよ

池田尚文選 特選
  枯れ蔓を引いた人から消へてゆく  下関市 山本佳絵
 

 もっともっと沢山の句があるのですがほんの一部だけ掲載させて頂きました。私の応募した二句はスカだったのですが、悔し紛れに一句載せておきます。

  荒梅雨やたうたう川が龍となり  照れまん

 この時、童恋さんはもう92歳を越えられていたので俳句大会の委員長はかなりのハードワークになったのでしょう。大会終了の翌月、疲れからか体調を崩され、周防大島町の病院に入院。
「ここではよく解らないので、大きな病院で検査を受けましょう」と山口大学医学部付属病院(通称宇部医大)に転院。血液検査のみ行なわれ、検査の結果では薬害ではないか?「そんなに悪いところは無いので大丈夫ですよ」、と言うことで、その年の12月には無事退院。

朝顔やあしたに一人死するとも  松井童恋

 年が明けて2010年初め頃、またしても体調を崩され入院。今度は柳井市の周東病院に転院。色々検査した結果、かなり腸の具合が悪いということで、大腸の手術されることに・・・。手術は成功し、次第に回復。
 リハビリを行ない始めた矢先、突然容体が急変。平成22年(2010年)3月27日、帰らぬ人となってしまわれました。

 入院中、お弟子さんが口述筆記をされた次の句が最後の句になりました。

  春の雪穂壺のうしろへ消えゆく日  童恋

 この句は2010年3月23日のこと。
 病院の6階から向こうに見えるのが穂壺川(ほつぼがわ)。それを黄泉の川に見立てられたのでしょうか?ご自分の人生の終焉をこの場所に重ね合わされたのでしょう。

 童恋さんは亡くなる少し前に、お弟子さんに辞世の句を渡されていました。そして、「句碑を建てほしい」と句碑の費用を渡され、建立の場所とその場所の許可もすでにお取りになっておられました。ご自分の生れた集落を見下ろす小高い所にある公園。

 お亡くなりになられたあと、お弟子さん達は句碑の建立に奔走する事になります。誰も句碑を建てたことがなく、その知識もありません。俳誌の主宰や俳人など、あちこち尋ね歩く事になります。色々アドバイスを貰い、墓屋などを訪ねたころ、やっと句碑を建立してくれる石材店を見つけ、立派な句碑を建立することが出来ました。

 石碑の句は「寒牡丹竹一本をかこひとす」です。この句は以前発表されたことがあり、その時は「寒牡丹竹一本のかこひかな」となっていました。暫くしてご自分でご自分の句を推敲され添削し、書き直されたようです。「かこひかな」を「かこひとす」としました。
 これで俳句がぴしゃりと決まりました。
 弱々しいが美しくも華やかな寒牡丹。一本の竹が添えられ、それを支えにしっかりと咲いている。ただそれだけしか書かれていません。しかし、そこに御自分を重ね合わせておられるのでしょう。自分の人生、それはまさにそのようでは無かったろうか?俳句をただ一本の支えにして長い人生を生きてきた。そのような思いがおありだったのでしょう。
 戦争で中国戦線におられた時も、俳句を作り続けていたというのですから、伺い知る事が出来ます。
 ご自分ではよく「俳句は遊びの境涯」と言っておられました。まさにこの句は境涯句そのものだと思います。
 それで、この句が「辞世の句」になります。

松井童恋 本名:吉田繁行 享年93歳  2010年3月27日逝去   

句碑の裏書き・・・。

俳誌 其桃・草炎・山彦・ホトトギス所属 吉田繁行
平成二十二年三月吉日   大島郡俳句協会

 俳句は推して敲く推して敲くを繰り返す。ああでもない、こうでもないと推敲を重ねる。「舌頭に千転せよ」です。しかし、ぴしゃりと嵌まる事は少なく、又元の最初の句に戻ることもしばしばある。なかなか一筋縄ではいかない。だから、面白い。ぴしゃりと決まったときは「やった!」という高揚感がある。
「俳句は物を書くべし」「花鳥諷詠」。「考えたことや思ったことは書かない」。「俳句は知識を披講する場では無い」。「言いたい事や主義主張は書かない。もし、そういうことが書きたかったら、エッセイを書きなさい」。「何故考えたことや主張を書かないのか?そんなことを書くと粋にならないでしょう。決して侘び寂びにはなりません」。「見た物を見たまま書く」。「これは面白いと思ったことを書く」。「自然を見て自然を観察し、自然に同化し、自然と一体化すれば、その対象物が勝手にしゃべってくれるようになります」。「俳句の品格を常に考えなさい。俗な季語は俗な句にならぬよう格調を持って」「格調のある季語は、それを壊さないように少しだけ砕けて書いても構わない」。「自分の古い句を自分で添削してみなさい。自分がこんな所で止まっていたのかということがよく解りますよ」。「本を読みなさい」。「不易流行。季節は毎年同じでも毎年違っている。その中に新しいことを見つけなさい」。「和語と漢語を常に意識しなさい」などなど・・・・。
 沢山の格言のようなことをおっしゃっておられました。しかし、わたしが頭が悪いのと書き取っていなかったので、殆ど忘れてしまったのが残念です。

 わたしは長く入院生活をしておりまして、その間に殆ど俳句の本や句会報など捨てられてしまいました。それで、童恋氏の俳句も多くを無くしてしまったので惜しい事をしました。残っていたわずかな句をこのブログに十二回に分けて掲載させて頂きました。
 古典的な伝統俳句に則った、とても素敵な句を作られる素晴らしい俳人でした。

中央やや右の小さな集落が地家室(じかむろ)

遊花有然花はなびらとなりて散る   松井童恋

 地方には沢山の素晴らしい俳人がおられます。そういう方が少しでも紹介が出来たらと思いこの記事を書きました。また、わたしの所にはこのような素晴らしい俳人がおられますよと言う記事があれば必ず見にいきますのでお教え下さい。
 では今回、これで「俳人 松井童恋」は終わりにします。長い間お付き合い下さいまして有り難う御座いました。    
                   合掌

俳人 松井童恋 その1    俳人 松井童恋 その2
俳人 松井童恋 その3    俳人 松井童恋 その4

俳人 松井童恋 その5    俳人 松井童恋 その6
俳人 松井童恋 その7    俳人 松井童恋 その8

俳人 松井童恋 その9    俳人 松井童恋 その10
俳人 松井童恋 その11

 まだ松井童恋氏についてお読みになっておられない方が御座いましたら、上にリンクを張っておきますので、お読み下さい。ではでは・・・・。

鵙の声枯木に残し師の逝けり  照れまん  

(おわり)

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追悼 瀬戸内寂聴大法尼

かきくわりんくりからすうりさがひとり  瀬戸内寂聴

 この句はとっても面白い。ひらがなでやさしく書かれていて、遊び心と切なさが同居している。
 漢字で書くと「柿花梨栗烏瓜嵯峨一人」となる。こうすれば読みやすいかと思うが、やっぱり読みにくい。とにかく堅い感じになる。これをひらがなで書くと読み手はちょっと面食らう。「かきくわ・・・りん・・くりから・・・??」「えーっ、何これ!!」ってな感じ。それを見ている寂聴さんがにんまりと微笑んでいるようで実に楽しい。名詞の順番を変えるだけで収まりが良くなり、随分と読み易くなる。「からすうりかきくりくわりんさがひとり」。しかし、こうしない。柿・花梨(榠摣・カリン)・栗・烏瓜と秋の季語が四つも並んでいる。季重なり、なんてのはどうでも良い。思いついた物を思いついた順番に書いている。豪華!「沢山並んでいて楽しいでしょう!!」と言っているよう。
 季語が三つ並んでいる句は何句か知っているし自分も作ったことはあるが、四つは記憶に無い。これは新記録というか、とっても珍しいと思う。寂聴さんのクスクスと笑う顔が目に浮かぶ。
 何度も読んでいると段々と読み慣れてくる。カ行の「カ」「キ」「ク」の音の面白さ、小気味良さがある。この句は読み手にはちょっと戸惑い感やギクシャク感があるのだがそこが面白い。それらがひらがな表示なのでオブラートに包まれたような柔らかさになる。寂聴さんは自由奔放。思いついた物を思いついたままに書いている。茶目っ気があってユーモアが溢れていて、それでペーソスのある個性溢れる句になっている。とってもユニークで面白い、これこそ寂聴句だと思う。

京都 寂庵

 1985年頃より京都「寂庵」『あんず句会』が開かれるようになります。講師・選者に俳人の黒田杏子氏が招かれ指導されます。『あんず句会』は黒田杏子氏の「杏」の一字を取り、寂聴氏が名付けられたようです。句会には寂聴氏もご出席され、毎月きちんと投句されていたようです。

「あんず句会」第一回
  法臘は十三にして冬紅葉  寂聴

前書きに 「あんず句会」第一回 とあります。おそらく記念すべき最初の句会の一句でしょう。その他の「あんず句会」より二句載せて見ます。

  西行忌バレンタインチョコ奉る  寂聴

 もし、西行さんが今いらしたら、チョコを差し上げるのに・・・、なんて・・・!
「たてまつる」というのですから、どなたか目上の人に献上、差し上げたのでしょうか?それともご仏前にお供えしたのでしょうか?西行さんを敬愛し、悠久の時と現代を感じる面白い作品。
 バレンタインと聞いて、ついついわたしの作った片想いの句を思い出していました。
  [まっすぐに割れぬ板チョコバレンタイン  照れまん]  ナンチャッテ!

  寂庵に初音うぐひす普門品  寂聴 

「普門品」ふもんぼん とは観世音菩薩普門品の別称。観世音菩薩の名を受持することの功徳や、この菩薩が三三に身を変えて世の人を救う事を説いたもの。普門とはあまねく行き渡っている門戸の意。

寂聴さんと永六輔氏、黒田杏子氏と三人はとても仲良し

 寂庵で句会が始まる少し前にこんなことがあったと風の噂に・・・・。
「ねえねえ黒田さん。わたしお金が貯まって貯まってしょうが無いの!どうしたらいいかしらねえ??」
「あらまあ、羨ましい・・・!じゃあ、お寺でもお建てになったらどうですか?」
「あら、それはいいわねえ。どこに建てればいいかしら・・・?」
「そうですねえ。やはり、京都がいいんじゃないでしょうか!」
「そうね、京都がいいわねえ。じゃあ、京都にお寺を建てることにするわ・・・!!」
というのでお建てになったのが、寂庵とか・・・?? これは本当かどうかは解りませんが、何となく信憑性があるような・・・。しかし、我々小市民からすると羨ましい話。他の人が言えば厭味になりますが、寂聴さんならさもありなんと思って仕舞い、ついつい笑顔になってしまいます。

 その後1990年、寂聴師の助言により黒田杏子氏は俳誌『藍生』(あおい)を立ち上げられます。「あんず句会」を元にして作られましたので、あんず句会から多くの会員が「藍生」に参加され、寂聴師もその中に加わり応援されました。

 「藍生」創刊号に寂聴氏がお祝いの俳句を寄せられていますので掲載してみます。当時六十八歳。「藍生のお祝いに好きな言葉を贈ります」とあり、そのお言葉(前書き)と祝句。

 忘己利他 捨ててこそ

  ひとすぢの道朗々と月渡る  寂聴


 門出にふさわしい、いい句だなあと思います。
 ところで、何を隠しましょう、このわたくしも「藍生」創刊号より参加したのであります。従って、寂聴師とは兄弟弟子、姉弟子と言うことになりますでしょうか??

 平成17年(2005年)『藍生』11月号・十五周年記念号 に会員一人一人の短文が載っておりますので、その中から寂聴師の全文を載せてみます。

瀬戸内寂聴 京都
「まわりを見廻せば、なつかしい人、恋しい人はみんな死んでしまっている。残された自分が世の滅亡を見るためにいるようで長生きは貧乏くじを引いたような気さえする。それでも自殺して、なつかしい人々のいっぱいいるあの世へ行きたいかといえばそうでもない。来年は見られないかも知れないと思い、四季折々の風物にしっかり目を据えているし、どっちが先に死ぬかも知れないと思って、わずかに残っている旧友とはていねいにつきあっている」

 この五年後平成二十二年(2010年)『藍生』十二月号 二十周年記念特別号 には一人五句づつの俳句と短文が載っておりますので、この中から掲載してみます。
 寂聴氏の五句は、この記事の最初に掲載しました「かきくわりん・・・」の句と「法臘は十三にして・・・」の句なので、その他の三句を掲載してみます。それぞれに前書きが書かれています。

天台寺にて
  御山のひとりにふかき花の闇    寂聴
  (おんやま)

高野山の杏子句碑に
  句菩薩のこゑみなづきの石のこゑ  寂聴

道後宝厳寺の杏子句碑に
  月満ちて一遍孤愁人満ちて     寂聴

 

稲光一遍上人徒跣(いなびかりいっぺんしょうにんかちはだし)杏子

二十周年記念号の短文。

瀬戸内寂聴 京都
「嵯峨野僧伽での『あんず句会』も今秋二十五周年。『藍生』も二十周年。天台寺住職も二〇〇五年六月まで二〇年つとめた。『花に問え』で谷崎賞を頂いたのは七十歳。以来さまざまな賞が洪水のように押し寄せ、忙しさは増すばかり。米寿を過ぎて死にたいほど毎日が忙しい。でも死ねない。書きたいテーマはまだまだあって書き続けている。」

このように書かれておられます。
 『藍生』二十周年記念号に載っている黒田杏子宗匠の句とわたしの句を一句づつ載せて見ます。

  十六夜の雲わつて飛ぶ一遍忌  黒田杏子

  広島は今も広島雲の峰     照れまん

―――― H――A――I――K――U――――

 寂聴氏と俳句の出会いは1960年代初めの頃であったようです。若手新進気鋭の作家を編集部長の車谷弘氏(俳号 侘助)が「俳句をすると小説の文章が引き締まる。それに、短編の題に困らないよ!」と日本語の言葉の勉強になるからと当時売れっ子になっていた小説家の円地文子さんと二人を永井龍男氏(俳号 東門居)の句会に連れて行かれた。お二人とも俳句は初めてなので、とにかくぼろくそにけなされると言いますか酷評されたようです。毎回ブービー賞にトイレットペーパーを一巻きづつ頂いたとか。それでも、句会が終ると永井龍男氏が銀座の料亭に連れて行ってくれ、ご馳走を振る舞ってくれる。それが楽しみで続けていた。
 しかしある日「円地さんや瀬戸内さんのように、小説が売れている作家には、いい俳句は生れないんだ!」と断言された。それで、円地さんは怒って「わたし、俳句を辞める。もう行かない!」と言い出したので、瀬戸内さんもそれに従い「わたしだって辞めるわよ!」と言うことでお二人とも句会をお辞めになったとか。

永井龍男氏(俳号 東門居)の作られた俳句。銀座の句ともう一句を載せて見ます。

  春銀座また出し忘れたる葉書   東門居

  舟に舟寄せて手花火わかちけり  東門居

 二句ともいい句ですね。情景が目に浮かびます。
 それに致しましても、若い頃の瀬戸内晴美氏やその他の有名人の人達が銀座で楽しんでいる姿に、情熱や活気を感じ、胸が熱くなる思いがします。
 永井龍男氏と言えば小説家ですが、現代で言えば直木賞や芥川賞の選考委員だった人と言った方が解りやすいかも・・・。永井氏の俳句はとっても素晴らしいのでもう少し載せて見ます。

  自転車のベル小ざかしき路地薄暑  東門居

これは現在でも通じる俳句。そうだそうだと思わず納得してしまう共鳴句です。

  如月や日本の菓子の美しき     東門居

この句も本当にそうだなあと妙に頷いてしまう句。和菓子って本当に綺麗ですよね。実においしそう!!
最後にもう一句。

  悴めばなほ悲しみの凝るごとく   東門居

句集「ひとり}瀬戸内寂聴

 寂聴氏はその後俳句はやめてしまわれていたようですが、おそらく1980年前後では無いかと思いますが黒田杏子氏との出会いにより、その後「あんず句会」を立ち上げられ、俳句の魅力に目覚められたようです。

 瀬戸内寂聴さんは自分の葬儀に来て下さった人に記念の句集を渡したいと話されていたそうです。それで、九十四歳の頃、初句集「ひとり」を出版されました。

「おのづからあひあふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」一遍
 この一遍上人の歌に人間の孤独の本性がすべて言い著わしていると一遍上人を敬愛し、この中の言葉を句集の題にされたようです。

 瀬戸内寂聴氏のことについては私より皆様の方が詳しいのでは無いかと思います。それで、ここでは文学や寂聴氏の人生や出家については書きません。
 わたしは文学の評論家でも学者でも寂聴氏の研究家でもありませんので、寂聴氏の人生や文学などについては何も語ることが出来ません。実は寂聴氏の小説は一冊も読んだ事が無いので、誠に申し訳なく思っています。『源氏物語』は読んでみたいと思った事はあったのですが、ついついそのままになってしまいました。
 お会いしたことも話をしたこともありませんが、俳句は時々読んでおりました。俳誌ではエッセイや対談などが掲載されておりましたので、それらは読んでおりました。それで、この記事では俳句のみについて書いていますので、どうぞご了承下さい。
 もっとお知りになりたい方は是非本をお読み下さい。400冊以上出版されているそうです。それに YOU-TUBE では法話集なども沢山アップされておりますのでご覧下さい。
 一応、ウイキペヂア のリンクをはっておきますので、ご覧になりたい方はこちらをご覧下さい。

   Wiki「瀬戸内寂聴」  ← リンク。

その他の寂聴氏の俳句を少し載せて見ます。

  仮の世の修羅書きすすむ霜夜かな  寂聴

  子を捨てしわれに母の日喪のごとく  

  生ぜしも死するもひとり柚子湯かな

  おもひ出せぬ夢もどかしく蕗の薹  寂聴 

 寂聴さんはとても楽しい人。しかし、短い俳句の中に寂聴さんの歩まれた人生の悲喜こもごもとした味わいや深み、悲しみが滲み出ているように感じます。

追悼句を二句載せて見ます。

  白寿まで生きたる尼僧冬銀河   京都  清水健一

清水健一氏は「あんず句会」・「藍生」会員。

  顔施顔施顔施顔施雛の間     黒田杏子

 顔施(がんせ) とは布施の一種。和顔施ともいい、人と笑顔で接すること。寂聴さんは「私は顔施と言う言葉が一番好き!!」とおっしゃられていました。にこやかな顔で人に接すれば相手もにこやかになる。そうすればみんなが笑顔になり幸せになる。そうすれば世の中平和になりますよね、と言うことのようです。雛の間(ひいなのま)と五文字に読みます。黒田氏のこの句は寂聴氏の追悼七句の一番最後の句です。

 最後に寂聴氏の短い言葉を載せてみます。

「もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭ける人の心構えなのです」

 令和3年(2021年)11月9日入寂  享年99歳6ヶ月

法名 燁文心院大僧正寂聴大法尼(ようぶんしんいんだいそうじょうじゃくちょうだいほうに)

 最後にもう一句。最初にひらがな表記の俳句を載せましたので、最後もひらがなの句を・・・。

  はるさめかなみだかあてなにじみおり  寂聴           

 今回は 瀬戸内寂聴氏の俳句を、ほんの少しだけ紹介・掲載させて頂きました。俳句の感想は私の個人的な感想ですので、他意はありません。もしお気を悪くされる方がおられましたらお詫びします。それから、誤字脱字や文章の間違いがありましたらお許し下さい。
 拙い文章ですが、これで追悼に変えさせて頂きます。  照れまん  

合掌 

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俳人 松井童恋 その11

俳人 松井童恋氏の思い出 その11「松井家」

枯古木二天の鵙は動かざり  松井童恋

 この句は私の大好きな句。惚れ惚れするほど良い句だなあと思います。
 二天とは二天一流の宮本武蔵。武蔵の描いた水墨画に枯れ木に鵙(モズ)が止まっている画があります。あの水墨画のこと。今し方見た鵙はもう居なくなっている。武蔵の画いた鵙ならずっとあそこに止まっていてくれるのに・・・・。
 この句を最初に読んだのは1990年代の後半では無かったかと思います。その後暫く経って、NHKの大河ドラマ「宮本武蔵」が始まりました。そのエンドロールで武蔵の水墨画の鵙が突然パッと飛び立つ動画がグラフィックで描かれていました。それを見た途端「これだ!!」と思った。誰も考えることは同じなんだなと思ったり・・・。「童恋さん、すごい!」妙に感動していました。

枯木鳴鵙図 宮本武蔵

 松井童恋さんの本名は吉田繁行松井家から吉田家に養子に行かれましたので吉田姓に変わりました。しかし俳句では一生『松井姓』をお使いでした。

 松井家は私の田舎では名家といっていいのか、江戸時代には代々村の庄屋をしていました。山口県大島郡周防大島町地家室、旧白木村の地家室(じかむろ)という小さな集落。そこから廻りのいくつかの集落を束ねる大庄屋のような立場でした。当時、毛利家に陳情する正式文書や公文書を書いていました。藩からは、納税や新田開発・使役など、色んな命令書や通達文書が届き、それを松井家が各村に伝えていました。これらのことから、田舎では大変格式高い庄屋で、皆から信頼されていたようです。
 童恋さんの子供時代、まだ大正時代だったので、江戸時代のそういう意識が色濃く残っていたと思われます。従って、童恋さんは松井家のことを誇りに思い、強い愛着がおありだったと思われます。

螢火の一つ相寄る二つかな  童恋

 それともう一つ話は飛びますが、皆様は松井武雄・松井佳寿恵ご夫妻をご存じでしょうか?恐らく日本人の殆どの方は知らないと思いますが、アメリカ カルフォルニア州選出の民主党下院議員です。奥様もご主人の死後、後を継いで下院議員になっておられます。この松井氏と童恋さんは親戚になります。
 ロバート・マツイ氏のお爺様と童恋さんお爺さんが兄弟です。小さい集落なので三男・四男は土地がありません。従って島から出ていくことになります。明治時代中頃、ロバートマツイ氏のお爺さんはアメリカに移民として渡って行かれた日系一世です。

Robert Takeo Matsui  日本名:松井武男 ロバート・マツイ、又は ボブ・マツイ(1941~2005年)アメリカ生まれ、日系三世。生後半年目、1942年敵国の日系人として家族全員が強制収容所に入れられます。11万人を越える日系人が財産は没収され収容所に送られました。大戦が終り、日系人は解放されますが、ひどい差別と貧乏に苦しみ、スパイなどと罵られる事もしばしば。1960年代、ロバート・マツイ氏は苦労してカリフォルニア大学バークレー校に進学。その後、法務博士を取得。大学で奥様となる後輩の佳寿恵さんと知り合い、後に結婚。サクラメント市議会議員・サクラメント副市長を経て、1978年民主党下院議員に当選。以後、下院議員を13期努めておられます。
Doris Okada Matsui 日本名:松井佳恵恵・まついかずえ(1944~ )マツイ氏の奥様。強制収容所の中でお生まれになっています。カリフォルニア大学バークレイ校卒。心理学士。クリントン大統領時代ホワイトハウスに勤務。

空蝉の掴みしここが本籍地  照れまん

 アメリカはとても人種差別のひどかった国。戦後の日系人は特にひどい差別や露骨な嫌がらせを受けました。しかし、日系人はじっと絶え、地道に働き、努力を重ねました。日本自体も経済発展を遂げ、やがてG5やG7の仲間入りをするほどになり、国として認められるようになります。すると、アメリカの日系人の人権も次第に復権し、認められるようになります。
 マツイ氏は戦争中にアメリカが日系人を強制収容所に隔離したのは正しかったのか?長い間疑問を投げ続けました。アメリカの国籍を持ちアメリカに忠誠を誓ったのにもかかわらず、財産は没収されトランク二個で収容所に入れられたことは民主主義国家として、それでいいのだろうか?
 戦後暫くは「敵国なので当然」という雰囲気で一致していました。しかし、次第にその考え方が変わってきました。そして、長い間アメリカ議会で議論されていましたが1988年レーガン大統領の時、ついに日系人を収容所に強制連行したのは間違いだったと言う結論に達し、憲法違反を認め日系人に謝罪。生き残っている日系人全員に2万ドルの賠償金を払うことが可決されました。
 山口県でもアメリカの強制収容所に送られた人が帰国し生き残っており、突然アメリカからお金が送られてきたとニュースで話題になっていました。確か日本円にすると600万円か700万円くらいでは無かったかと思いますが、私の記憶が間違っていたら御免なさい。
 アメリカってすごい国ですね。過ぎ去った一つのことを四十数年間も議論し続け、そして間違っていたという結論を出し、個人を特定してお金を送金するのですから。日本だったらさしずめ、「申請書を出せ、そしたらお金を払ってやる!」と言うことになるでしょうか?

桜花二番三番なき国歌  照れまん

 話は余談になりますが1975年。私はアメリカのオレゴン州に留学していました。そこのアパート何棟かの真ん中にプールがありました。そこで、日本人の友人3人とそこのプールに泳ぎに行きました。ところが、プールの前で警備員に止められ、「白人以外は駄目だ!」と・・・。「えーー!!」ですよね。「何人(ナニジン)か?」と聞かれたので「日本人だ」と答えると「何をしている(職業は何)?」と聞かれたので「クラシュック音楽の演奏家」と答えると「そうか・・・」といい、ちょっと考えていましたが、「日本人なら良いだろう」とプールに入るのを許可してくれました。
 日本に居たらとても考えられないこと。アメリカってすごい人種差別があるのだとその時に初めて知りました。
 Abraham Lincoln(リンカーン氏)が大統領になったのが1860年ですから、もう100年以上経っているのに、まだそんなに残っているのかと驚いた記憶があります。
 アメリカはアフリカ系・ヒスパニック系・アジア系・中東系など色んな人種が混在していますので、小さなことから深いものまで、色々な差別が残っています。コロナ禍の現在、それらが噴出し、分断が生じています。

 ロバート・マツイ(ボブ・マツイ)はカリフォルニア州ではとても人気の高い政治家。様々な人種差別や偏見と戦い、自由で平等な国になるように尽力されました。又、社会保障や外交、福祉・教育などにも力を注がれました。それで、カリフォルニア州ではとても得票率が高く13回も再選されています。そのような信頼関係があるからでしょう。マツイ氏の死後、奥様が立候補され見事下院議員に当選されています。以後、奥様も8回当選されています。

 ロバート・マツイ氏が訪日された折、雑誌にインタビュー記事が掲載されて居ました。その中でご自分のルーツについて聞かれた時、
「私は日系人ですがアメリカ人なので、今はルーツについて知りたいとは思わない」と答えておられました。
 もし、その場に私が居たら教えて差し上げたのにとちょっと残念です。私は1980年代の村の松井家の当時の当主(今はお亡くなりになっていますが)のお爺さんをよく知っています。小柄で温厚な皆から信頼されている方でした。松井家は頭の良い家系で勉強熱心、真面目で優しく、人の為になる事をされ、人をよりよい方向に引っ張って行かれる、そんな家系では無かったかと思います。そういう松井家の血筋がロバート氏にも童恋氏にも、受け継がれているのではないかと思ったりしています。どことなく、松井家のお爺さんとロバート・マツイ氏や童恋さんの風貌が似ています。

鳴き砂の今は泣かざり終戦忌  照れまん

松井童恋氏の出身地、山口県大島郡地家室(じかむろ)集落

 私は松井童恋氏から松井家の家系図を見せて頂いたことがあります。その中にロバート・マツイ氏のこともしっかりと書かれていました。もしあの時、スマートフォンでも持っていれば家系図を写真に残していたのにと残念です。
 そんなことからも、松井童恋氏が松井家に対する誇りや思い入れがどれだけ強かったかがお解かりになると思います。だから、生涯『松井童恋』だったのでしょう。

 水晶球過去に未来を売る夜店  照れまん

 今回は童恋氏の家系についてちょっと書いてみました.

石一つ天元にあり蝌蚪の陣  松井童恋

(つづく)

俳人 松井童恋 その1 ← こちら

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ニホンミツバチ と キンリョウヘン

改革派日本蜜蜂分峰す  照れまん

今回は「ニホンミツバチ」と「キンリョウヘン」を載せて見ます。

2020年春頃、我が家の庭に沢山の蜜蜂が飛んで来ていました。どうやら、床下に巣を作ったらしく通気口から出入りをしています。
蜜蜂は刺さないのでそのまま放置することに・・・。

床下の通気口はこんな感じです。

翌年の2021年春。蜜蜂が文法蜂球(ぶんぽうほうきゅう)を起こしたらしく、巣から出てきて庭木のウバメガシの木にぶっついています。ものすごい数の群れが一塊。

これはいったいどうしたものか・・・?
そこで、島の養蜂家に電話してみることに。
そしたら、「見に行ってみましょう!」と来てくれた。
「これはニホンミツバチですよ。欲しいなあ・・・・」というので、
「どうぞどうぞ、全部捕って行って下さい!」と言うと、蜜蜂の巣箱を木の下に置きキンリョウヘンという蘭の鉢植えを側に置いた。
「この花はニホンミツバチが好きなので、側に置いておきます。これで箱に入ってくれるといいんですが・・・・。暫く様子を見てみましょう。また来ます」と言い帰って行った。

ニホンミツバチ

昆虫綱・ハチ目・ハチ亜科・ミツバチ上科・ミツバチ科・ミツバチ亜科・ミツバチ族・ミツバチ属・コミツバチ亜属・トウヨウミツバチ亜種・ニホンミツバチ

ニホンミツバチは西洋ミツバチより小さくて黒っぽい感じ。

木の下にミツバチの箱とキンリョウヘンの花が置かれています。

キンリョウヘンの花を近くで撮るとこんな感じ。

キンリョウヘン 金稜辺

被子植物門・単子葉植物綱・ラン目・ラン科・シュンラン属・キンリョウヘン

学名 :Cymbidium floribundum Lindl.

和名 :キンリョウヘン 金稜辺

【キンリョウヘンはニホンミツバチをはじめとするトウヨウミツバチの分蜂群や結婚飛行に飛び立った雄蜂の群れを引き寄せる匂い(集合フェロモンと同じ作用を持つといわれている)があり、春先にニホンミツバチの分峰群を捕獲する時に利用されることもある】
とあります。西洋ミツバチにはこの現象は見られないそうです。
だから、この花を持ってきたのですね。納得(◎∪☆)!!

三日ほどして見てみると、箱に少しは入っていましたが、キンリョウヘンの鉢にかなりくっついています。
「違うでしょう!植木鉢じゃなくて箱に入ってよ~~!」ってな感じ。

その後、チラチラと遠くから眺めていた。
一週間程して庭を見ると、「ありゃりゃ、箱がない??」
養蜂家の方が来てくれ、蜂を連れて帰ったようです。私は気が付かなかったのです。昼寝でもしていたのか?残念!どのくらい捕れたのか見たかったのに・・・・???
一匹の蜂もいなくなっていたので、沢山捕れたのでしょう。

さてさて、このあたりで俳句にいきます。

俳句では「蜂」は 春の季語 になります。
蜂は種類が多いいので、傍題が膨大にあります(ヨロヨロ)。
それらを書いてみます。
花蜂(はなばち)・小花蜂・蜜蜂・熊蜂・足長蜂・姫蜂・黄蜂・雀蜂・山蜂・似我蜂・黒雀蜂・地蜂・土蜂・穴蜂・徳利蜂蜂(とっくりばち)・女王蜂・雄蜂・働蜂・蜂飼う・蜂の剣・蜂の針・蜂の子・蜂の王 などばど・・・。『日本大歳時記』にこれだけ載っています。

  一畠まんまと蜂に住まれけり  小林一茶

ニホンミツバチは蜜蜂の中に含まれます。それで、今回は、蜜蜂の句を選んで載せて見ます。

  蜜蜂の重そうに翔ぶ羽音かな    米澤富栄

  蜜蜂のにぶきひかりのむらがれる  中田 剛

  蜜蜂の出で入り出で入る巣箱古り  松本たかし

上の写真、尻尾の黒いのがいますが、これが女王蜂でしょうか??

  蜜蜂の儲け話や菊白し  野村喜舟

この句では菊が季語なので秋の俳句になります。

野村喜舟。1886年~1983年(明治19年~昭和58年)、石川県金沢市に生まれる。子供の頃、東京に移住。14歳で小石川の陸軍東京砲兵工廠に就職。20歳を過ぎた頃俳句を始める。暫くして松根東洋城の主宰する俳誌「渋柿」に創刊号より参加。47歳の時、小倉造兵廠が出来、そちらに転勤。以後小倉に住む。66歳の折、東洋城の「渋柿」の主宰を引き継ぐ。

私が以前から書いている「俳人松井童恋氏」の童恋さんも同じ小倉造兵廠に務めておられました。童恋さんはまだ若く、どうやらお会いする機会はなかったようです。
島に住む「渋柿」に所属していた私の友人が時々見舞いに病院に来てくれました。その時、偶然に松井童恋さんと一緒になり、俳句の話から友人が「渋柿」所属と聞き、
「え~喜舟さんのお弟子さん!」と大変喜び、3人で大いに話が盛り上がりました。童恋さんは喜舟さんや喜舟さんの俳句についてもよくご存じで、とても尊敬されているのが解りました。

 蜜蜂の花粉の足輪ほこらしく  照れまん

キンリョウヘンは中国原産 1400年代に日本に伝来 小型シンビジュウムの仲間 
2021年5月3日撮影

  蜜蜂やしきりに飛んでたのもしき  高野素十

蜜蜂は蜜源を見つけると巣に帰り、ダンスをしてその場所を教える。円形ダンスや8の字ダンスで距離や方角を教えるらしい。このことを突き止めた2人の動物行動学者は1973年ノーベル生理学・医学賞を貰ったそうです。

右の写真は2021年4月19日撮影 

ところで、ハチミツは国産より輸入の方が圧倒的に多いようです。国産品の殆どは西洋ミツバチによる物。ニホンミツバチは体が小さく飛翔距離が短いので、ハチミツの採れる量が少ない。それに、脱走することも良くあるので、飼うのが難しいそうです。ニホンミツバチのハチミツは販売はされているそうですが量が僅かで、個人的に売られていることが多く、統計数字にはなかなか現れないようです。とても貴重品なのですね。

ニホンミツバチは逃亡癖があるようなので、その一派が我が家に来てくれたようです。
ニホンミツバチ頑張れと応援したくなります。

  サングラスのパブロピカソに蜜蜂  金子兜太

以前、ブログに「蜜蜂・蜂」← を載せたことが御座います。お暇でしたらご覧下さい。

今回は ニホンミツバチキンリョウヘンを載せて見ました。
ではでは、また宜しく・・・。

  蜜蜂や倭王卑弥呼はそこここに  照れまん                                             

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銀竜草・ギンリョウソウ

銀竜草夢の如くに立つ夜明  長谷川久代

普通に生活していると、あまり見かけないかも知れない花、銀竜草(ギンリョウソウ)を載せて見ます。
私の村には何カ所か生えるところがあります。

ギンリョウソウ

APG分類体系  キク類・ツツジ目・ツツジ科・シャクジョウソウ科・ギンリョウソウ属・ギンリョウソウ

学名 :Monotropastrum humile(D.Don) H.Hara  (モノトロパストラム ヒューミレ) ヒューミレは背が低い 、H.Hara というのは日本の植物学者 原寛(はらひろし)氏のことであろうか?

和名 :ギンリョウソウ(銀竜草)  
別名 :ユウレイタケ(幽霊茸)、又は  ユウレイソウ(幽霊草)

中国名:水晶蘭

日本全土に自生。樺太・中国・チベット・インドシナなどアジアに広く分布。山地のやや湿り気のあるところに生育。

光合成を行なわないため全体は透けた白色。だから、銀。それで、形から小さい竜に見立てて銀竜草。中国では水晶欄というのが素敵ですね。
花が咲くと柱頭は紺色と書いてあるが確かに中が紺色に見える。雄蘂と雌蘂がこの中にあるようです。

ギンリョウソウは「ツツジ科」というのがどうも腑に落ちない。

一番新しい植物の分類方法のAPG分類体系で、遺伝子の塩基配列を研究した結果、ツツジ科に分類されたそうです。
遺伝子工学が発展したのでこうなったのですね。すごい科学の進歩です。

ギンリョウソウは菌類から栄養を貰う「菌従属栄養植物」で、こういう植物を『腐生植物』と言うそうです。

ベニタケ類の菌糸から栄養を得ているそうです。

4~8月頃に花を付ける 。花が咲いたあとに液果が出来る。1.5㎝くらいの果実は熟すと落ちる。これを、モリチャバネゴキブリが食べてくれると、中に0.3~0.4㎜くらいの小さな種子が沢山詰まっていて、それを一緒に食べ糞としてあちこちに撒いてくれるらしい。
菌類と共生し、モリチャバネゴキブリとも相互共生の関係にあるようです。

北の地方ではゴキブリが居ないのでカマドウマが運んでくれるのではないかと思われるようですが、はっきりとは解っていないようです。

ギンリョウソウは地下に 短い地下茎と太く絡まり合った根から成る塊があり、これで増殖。だから同じところに生えてくれる。
そして、動物が運んでくれる種でも増える植物のようです。

上の写真は、この下にギンリョウソウが咲いていますよと言う写真を載せた看板というか説明板と右は往還道の案内板。
足下を見るとこんな感じです。普通の道路(農道)の端。山の入り口です。

やや右に咲いているのが解るでしょうか。

ここが山越えの旧往還道の登り口。ここから山を登り始めると何カ所かにギンリョウソウが咲いています。

白いのが解りますでしょうか。ギンリョウソウが点々と生えています。

 さて、俳句にいきす。


「銀竜草・ギンリョウソウ」は「夏の季語」(仲夏)


 昔の人達は歩いて山や峠を越えていたのでよく見かけたのでしょう。だから、歳時記に掲載されています。
 私のところは、瀬戸内の暖かい南の地方になるので4月~5月頃に咲いていますが、本州では5~6月頃から7月にかけて咲いているようです。私の持っている『日本大歳時記』には、6~7月頃咲くと書かれていて「仲夏」とされています。ここには僅かな説明と、例句が二句しか載っていません。最初に掲載した句はその中の一句です。
 もう一句も載せて見ます。

  天もる日や銀竜草が発光す  近藤忠

 植物って本当に不思議ですね。色んな進化を遂げて、それぞれがそれぞれの生き方や形をしています。見るだけでもとっても面白いし、感心してしまいます。

 ネットで見つけた俳句も一句載せて見ます。

  銀竜草滝のしぶきを摘みきしや  宮津昭彦

いい俳句ですねえ~!! 
 そういえば、写真に撮った時に水に濡れたような水滴が付いているものもありました。
 実は今回の写真は2014年4月17日~23日と2015年4月25日に写真班が撮ってくれたものです。それがようやく日の目を見ることが出来ました。写真班、ありがとう!!

 ところで、私の村では銀竜草の咲いているところに看板を立てていました。それが裏目に出たのか、現在道路の側に生えていたものは根こそぎ盗られて無くなってしまったそうです。残念ですが看板が裏目に出てしまいました。今は車の時代ですから簡単に盗られるんですね。自然に生えているのを見て楽しんでくれればいいのに・・・・。残念!!(×∪ゞ)

 そういうことで、今回はちょっと珍しいかなと思う夏の季語「銀竜草・ギンリョウソウ」を載せて見ました。

銀竜草ジブリの森に迷い込み  照れまん

後記  今まで記事は Windows Live Writer に書いてブログに投稿していました。それが、記事を書き投稿をクリックするとエラーになってしまい投稿できなくなってしまいました。色々修復を試みるのですがパソコン音痴なので、どうにも解らず。時間が経てば直るだろうかと暫くそのまま放置していたのですが、やはりエラーになり直っていない。
それでとうとう諦め、記事をブログに直接書き直すことにしました。それで、今回初めて WorldPressのブログに直接記事を書いてみました。そういうことで、ブログに直接記事を書いての初投稿です。こちらは、文字の色・形・大きさ、写真の加工などが出来ないようなので、遊びがないなという感じ。今はまだよく解っていないので、そのうち慣れれば色んな事が解るかも知れないと思って居ます。
そういうことで、これからもぼつぼつと偶(タマ)に書きますので、宜しく・・・・。

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「行火・アンカ」

 2021年1月。電気アンカの調子がよくなくて、時々冷たくなってしまう。見てみるのだけど、どうも本体横に付いているコントローラーのダイヤルの接触が悪くなっているらしい。長年使ってきたアンカなので仕方が無い。

DSC_3148 父と私の2代が30年以上使った日立の行火

 そこで、新しいものを買うことにした。
 今まで「YAHOO ショッピング!」を殆どしたことは無かったが、やり方が解ってきたのでしてみることに・・・。
 サイトを開くと沢山の行火が並んでいる。同じ商品なのに値段が違う物が何箇所かに。・・・なんで?と思いながら一通り見てみた。千円台から一万円を超える物まで沢山並んでいる。その中で、自分の一番気に入ったものが Panasonic のソフトアンカ。値段は7000円台から12000円台まである。同じ商品なのにどうして?と思うが安いものも同じならこちらを買ってみようかと7600円のものにした。
 無事手続きが終り、5日ほどした2021年2月2日商品が届いた。送料・手数料込みで ¥8,602、-。
 使ってみたがなかなかいい。これは正解だなと思った。今までのものは本体にスイッチ・ダイヤルが付いていたが、今度のは手元にダイヤルのメモリ・コントローラーが付いているのでこれが非常にいい。スイッチが入っているかどうか?強弱はどのくらいになっているかが一目でわかるのでGood。

DSC_3166

 説明書には「中国製」と書かれている。今時の商品は殆ど中国で作られているのだなとちょっと疑問に思うが、まあ仕方が無いのだろうと思う。
 それから2ヶ月ほどして、もう一度「YAHOOショッピング!」のアンカをのぞいてみたら、同じ商品が¥22,600,-になっていた。
「うわ~、高くなっている~!!早く買って良かった!」と思った次第。

・・行火 ◆あんか ●アンカ ◇ANNKA ・・

[国語辞典] 
行火 あんか :炭火などを入れて、手足を温める器具。電気行火。

 行 と書いて「アン」と読むのは何故??と疑問に思ったのでもう少し調べてみる。

【字通】 
行 コウ(カウ)、ギョウ(ギャウ)、アン。ゆく、おこなう、みち。
行 、十字路の形。交叉する道を言う。「人の歩趨なり」、1⃣みち、2⃣ゆく・やる・ゆくゆく、3⃣おこなう・なす・もちいる、4⃣たび・みちのり、5⃣めぐる・ならぶ・れつ、6⃣まさに・まず・はじめる、7⃣軍行の列・みせのならび・ところ・あたり、8⃣歌の一章を歌う・歌行

[妙義抄] 行 ユク、イデマシ、ヤル、アリク、アルク、サル、ニグ、イネ、サケツ、ミユキ、ミチ、フム、メグル、オコナウ、ワザ その他幾つかあり。

妙義抄 『類聚妙義抄』(るいじゅみょうぎしょう)平安時代11世紀末から12世紀にかけて日本で成立した、漢字を引く為の辞書。
 これには、行 と書いてアンと読む読み方は書かれていません。それで、調べると 行アン は唐音と書いてある。室町時代には宋音と呼ばれる。それで、唐・宋音とも呼ぶ。
唐・宋音とは、遣唐使の中止で途絶えていた日中間の交流が、平安末・鎌倉時代初期から再開し、室町・江戸時代に盛んになり禅宗の留学僧や民間貿易の商人達によってもたらされた。
唐宋音は鎌倉時代から江戸時代までに音読みにおいて中国から入ってきた字音。
行・アン は、行火(あんか)・行灯(あんどん)・行脚(あんぎゃ)・行宮(あんぐう)などに使われる。
その他に入ってきた言葉では「団栗」(どんぐり)や「饅頭」(まんじゅう)・湯婆(たんぽ)・「餡」(あん)・「椅子」(いす)「外郎」(ういろう)・「胡散」(うさん)・「銀杏」(ぎんなん)など、その他多数。
唐音 は体系的なものでは無く、断片的に特定の語として入ってきた。
 唐音は唐の時代を指すのでは無く、広く中国から入って来たという意味のようです。
「行」は最も古く日本に入ってきた呉音では「ギョウ」。その後、漢音読みの「コウ」が加わり、後の鎌倉から江戸時代にかけて唐音の「アン」という発音が加わったようです。行 には「旅」とか「運ぶ」「もちいる」という意味があるので行火・行灯などと使われるようです。

 さて、俳句ですが、俳句では「行火・あんか」は冬の季語傍題に「ねこ」・「ねこ火鉢」・「電気行火」が書かれています。大歳時記の説明はとても短く、例句も僅かしか載っていません。それで、少しだけ俳句を載せて見ます。

  電気行火座右に竹山嵐きく   臼田亞浪

臼田亞浪(うすだあろう)、本名:臼田卯一郎。明治12年~昭和26年(1879年~1951年)長野県北佐久郡小諸町に生まれる。1904年和仏法律学校(現法政大学)卒業。在学中に短歌を与謝野鉄幹俳句を高浜虚子に学ぶ。大正4年俳誌『石楠』(しゃくなげ)創刊。松尾芭蕉・上島鬼貫を敬愛し、自然詠を志す。昭和20年3月10日、東京大空襲により印刷所罹災。西多摩に疎開。昭和21年印刷所を長野に移し『石楠』復刊。
臼田亜浪の俳句にこんなのがあります。
  夜着の中足がぬくもるまでの我れ  臼田亞浪
この句の季語は「夜着」です。冬の季語。夜、寝るときに使う袖の付いた長い布団。褞袍(どてら)を長くしたような物。傍題に「掻巻」(かいまき)・「小夜着」(こよぎ)があります。夜着は私が子供の頃に寝るときに使ってました。布団の上から掛けてもいいし、布団の中にしても密着するのでとても温かいので具合がいい。袖が付いているので炬燵に入るときなんかに肩に掛けて袖を通したり・・・。昼間に着たりして遊んでいましたが、暖かいし長いのでとても面白かった記憶があります。最近見なくなりました。
前の句とこの句は全く別の句なんだけど、この句のあとに、前の句を続けて読むと面白い。夜着の句の時は行火の中に足を入れなかったのかなと思ったりすると楽しい。
 私の好きな俳句は
  にこにこと笑うて暑きこの世去る  臼田亞浪
本当に「俳」・「諧」に生きた人だなあとつくづく思います。素晴らしい俳人。

  古行火抱き足らぬ火の乏しさに   富田木歩

富田木歩(とみたもっぽ)、明治30年~大正12年(1897~1923年)。生まれる前は、東京向島の大百姓の旧家だったが、明治22年大火にあい殆どの財産を失う。そのあと、明治30年に木歩が生まれる。生まれた翌年、高熱を発し両足が麻痺、歩行不能になる。身体障害者になったため学校には行けず。それで、姉が少しづつ「いろはがるた」や「軍人めんこ」などから読み書きを教える。木歩は大変利発な子でそのうちに少年雑誌などが読めるようになる。明治43年、東京は大水害に遭い、父親が経営していた鰻屋が水没し、ますます貧困になる。木歩は友禅型彫りの仕事に行き始めるがそこでひどいイジメに遭い仕事を辞める。その頃から少しづつ俳句を作り始める。大正4年17歳の折、臼田亜浪に師事、『石楠』に投句開始。その頃、初めて俳句の弟子が出来る。その後、めきめきと頭角を現し、俳人として名が知れるようになる。晩年結核になるが、俳句仲間や弟子が寄付やカンパをしてくれて治療費や入院費用を出してくれる。木歩にとっては俳句が唯一の楽しみであり多くの人との繋がりで結ばれてていたようです。
自分で木の足を作った事があり、ここから俳号を「木歩」としたらしい。ただ、その木の足は使い物にはならなかったようです。そして大正12年、関東大震災という未曾有の大災害に遭遇し、火災に巻き込まれ焼死。まだ僅か26歳という若さでした。歩行不能・貧困・無学歴・肺結核の四重苦。それに加え大変なイジメにもあい、父が死に母も亡くなり、弟はろうあ者であり、身内が結核になりその看病をしていたことから結核に感染。五重苦・六重苦です。不幸を背負っていたような人。世の中は実に理不尽だと思うのですが、それでも、俳句が唯一の救いであり希望だったのが一縷の光です。もう少し木歩の句を読んでみたいですね。それで、一句だけ載せてみます。

  夢に見れば死もなつかしや冬木風  富田木歩

季語は「冬木風」ふゆきかぜ。身内が次々に亡くなったり、最初の弟子が隅田川で遊泳中に溺死したりしています。随分年を取ってから詠んだ句のように読めますが、実際は20代でこのような句を詠んでいます。すごい俳人です。

  行火守る木乃伊の婆々に冴え返る  河野静雲

  妻へも這ふ電気行火の赤き紐    細井埒人

  夫帰らぬ夜より行火を使ひそむ   細井みち

  旅先の真つ赤な電気行火抱く    岡本 眸

  根の国に潮の寄せくる行火かな   古舘曹人

「根の国」とは、日本神話に登場する異界、又は黄泉の国。この句では出雲国・島根県と読むのがいいのではないかと思うのですが、如何でしょう??

  芭蕉忌の行火たまはる瑞巌寺    沢木欽一

芭蕉忌は陰暦十月十二日。冬の季語。瑞巌寺は宮城県宮城郡松島町にある臨済宗のお寺。松尾芭蕉が訪れたのは有名。それにより、現在十一月に芭蕉祭が行なわれています。

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 冬の季語になっている暖房具には色んな物があります。炬燵・湯湯婆・懐炉・ストーブ・暖炉などは今でも使われていますが、今ではあまり見かけなくなった物に、火鉢・炭(すみ)・炭火・炭俵・埋火(うずみび)石炭・練炭などがあります。外国の物ではペチカや温突(オンドル)などがあります。日本人が朝鮮半島や満州に沢山出掛けていたので季語になったのでしょう。
 我が家には今でも木製の長火鉢があり、たまにお客様があるときに使い鉄瓶を掛けています。
 子供の頃、母が風呂焚きをする時に、冬は豆炭を入れて、豆炭行火を入れてくれていたのが懐かしい。

 今の時代はエアコンですが、私の持っている『日本大歳時記』にエアコンは載っていません。夏冬兼用なのでややこしいですね。「暖房」か「冷房」で詠むことになるようです。
 そういえば韓国からの留学生が「日本の冬は寒くて適わない!」と言っていた。それで友達が「エアコンを点ければいいのに?」と言うと、「駄目だよ!余計寒くなるじゃん」と言う。そこで、友達が部屋のエアコンを見に来てくれ、スイッチを入れると暖かくなる。「ほら!暖かくなるでしょう」と言うと、「ホントだ!韓国のエアコンは冷房だけだよ。日本のエアコンは冷房と暖房があるのを知らなかった!!」という話が韓国人サイトにありました。本当でしょうか??

 そういうことで、今回は冬の暖房具「行火」を載せて見ました。

一晩の安心安眠行火かな  照れまん

 私のつまんない俳句を載せて御免なさい。4年前に具合が悪くなり、俳句を止めてしまったので、今は作っていないのです。それで、今回急遽一所懸命考えたのですが無理でした。ろくな句は出来ませんでした。残念!!

  部屋に居て指一本で行火買う  照れまん

切腹(★∪ゞ)!!じゃ、また・・・・。
文章の中に誤字脱字、間違いがあるかも知れません。そこの所はお許し下さい。

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