俳人 松井童恋 その12(最終回)

俳人松井童恋氏の思い出 その12 「句碑」

鮟鱇の口を大きく偈を吐きぬ  松井童恋

冬の蠅一匹のこる小石かな     童恋

童恋さんのお住まいだった集落 地家室(じかむろ)

 2002年に奥様が亡くなられた時、童恋氏85歳。57年間も苦楽を共にされたのですから、悲しかったろうと思われます。しかし、奥様の亡き後、それまで以上に俳句の啓蒙活動に邁進されました。

 童恋さんは俳句結社との交流も盛んに行なわれていました。下関市の中村石秋のち池田尚文氏主宰「其桃」徳山市(周南市)の久行保徳主宰「草炎」下松市河村正浩主宰「山彦」。それから、柳井市の句会には毎月出向かれておられました。県外では、愛媛県宇和島市の井上論天主宰「加里場」。それから、伝統俳句協会の会員にもなっておられ「ホトトギス」にも投句されていました。伝統俳句協会は毎年立派な俳句カレンダーを発売しており、それを童恋さんが私に送って下さいました。カレンダーには童恋さんの句が掲載されていました。

 それから、山口県の俳句大会を大島郡周防大島町(屋代島)に招聘するよう活動を始められます。大島郡は瀬戸内に浮かぶ小さい島の貧乏な郡。県の大会などを開くのはとても難しい。しかし、童恋さんを中心に大島郡俳句協会のメンバーやお弟子さん達が一丸となって協力し合い、大島郡で開催できるよう努力されました。それで、2009年に開催されることが決定。句の募集や会場やホテルの予約、バスの手配、アトラクション、協賛企業招致など、色々なことを準備。数々の問題をクリアーし、無事開催にこぎ着けました。
 2009年11月15日、山口県俳句大会大島郡大会は童恋さんが大会の委員長を務められ、見事大成功に終えることが出来ました。

 平成二十一年 第三回 山口県総合芸術文化祭  第46回山口県俳句大会 
 山口県以外の人は山口県の俳句大会など見ることは無いと思いますので、ほんのちょっとだけ俳句を紹介します。山口県の選者の選んだ句も童恋さんを含めて少しだけ紹介します。これは2009年の大会の句です。

山口県知事賞
  躰から先にかけ出す祭足袋     光市  竹本チヱ子

山口県教育長賞
  避難所の眠れぬ団扇また動く    山陽小野田市 三浦裕子

毎日新聞社賞
  春光やいのちはみんな濡れて生る  山口市 中井秀穂

大会賞
  役終えてみんな焼かるる梨袋    美祢郡 高山菱湖

松井童恋選 特選
  神泉に鎖をかけて鵯渡る      下関市 和泉屋貴美子

中村石秋選 特選
  川あかり届き夜干しの鵜匠の衣   下関市 迫田白庭子

河村正浩選 特選  
  峡四五戸瑞穂の国の青田風     山口市 多田みちよ

池田尚文選 特選
  枯れ蔓を引いた人から消へてゆく  下関市 山本佳絵
 

 もっともっと沢山の句があるのですがほんの一部だけ掲載させて頂きました。私の応募した二句はスカだったのですが、悔し紛れに一句載せておきます。

  荒梅雨やたうたう川が龍となり  照れまん

 この時、童恋さんはもう92歳を越えられていたので俳句大会の委員長はかなりのハードワークになったのでしょう。大会終了の翌月、疲れからか体調を崩され、周防大島町の病院に入院。
「ここではよく解らないので、大きな病院で検査を受けましょう」と山口大学医学部付属病院(通称宇部医大)に転院。血液検査のみ行なわれ、検査の結果では薬害ではないか?「そんなに悪いところは無いので大丈夫ですよ」、と言うことで、その年の12月には無事退院。

朝顔やあしたに一人死するとも  松井童恋

 年が明けて2010年初め頃、またしても体調を崩され入院。今度は柳井市の周東病院に転院。色々検査した結果、かなり腸の具合が悪いということで、大腸の手術されることに・・・。手術は成功し、次第に回復。
 リハビリを行ない始めた矢先、突然容体が急変。平成22年(2010年)3月27日、帰らぬ人となってしまわれました。

 入院中、お弟子さんが口述筆記をされた次の句が最後の句になりました。

  春の雪穂壺のうしろへ消えゆく日  童恋

 この句は2010年3月23日のこと。
 病院の6階から向こうに見えるのが穂壺川(ほつぼがわ)。それを黄泉の川に見立てられたのでしょうか?ご自分の人生の終焉をこの場所に重ね合わされたのでしょう。

 童恋さんは亡くなる少し前に、お弟子さんに辞世の句を渡されていました。そして、「句碑を建てほしい」と句碑の費用を渡され、建立の場所とその場所の許可もすでにお取りになっておられました。ご自分の生れた集落を見下ろす小高い所にある公園。

 お亡くなりになられたあと、お弟子さん達は句碑の建立に奔走する事になります。誰も句碑を建てたことがなく、その知識もありません。俳誌の主宰や俳人など、あちこち尋ね歩く事になります。色々アドバイスを貰い、墓屋などを訪ねたころ、やっと句碑を建立してくれる石材店を見つけ、立派な句碑を建立することが出来ました。

 石碑の句は「寒牡丹竹一本をかこひとす」です。この句は以前発表されたことがあり、その時は「寒牡丹竹一本のかこひかな」となっていました。暫くしてご自分でご自分の句を推敲され添削し、書き直されたようです。「かこひかな」を「かこひとす」としました。
 これで俳句がぴしゃりと決まりました。
 弱々しいが美しくも華やかな寒牡丹。一本の竹が添えられ、それを支えにしっかりと咲いている。ただそれだけしか書かれていません。しかし、そこに御自分を重ね合わせておられるのでしょう。自分の人生、それはまさにそのようでは無かったろうか?俳句をただ一本の支えにして長い人生を生きてきた。そのような思いがおありだったのでしょう。
 戦争で中国戦線におられた時も、俳句を作り続けていたというのですから、伺い知る事が出来ます。
 ご自分ではよく「俳句は遊びの境涯」と言っておられました。まさにこの句は境涯句そのものだと思います。
 それで、この句が「辞世の句」になります。

松井童恋 本名:吉田繁行 享年93歳  2010年3月27日逝去   

句碑の裏書き・・・。

俳誌 其桃・草炎・山彦・ホトトギス所属 吉田繁行
平成二十二年三月吉日   大島郡俳句協会

 俳句は推して敲く推して敲くを繰り返す。ああでもない、こうでもないと推敲を重ねる。「舌頭に千転せよ」です。しかし、ぴしゃりと嵌まる事は少なく、又元の最初の句に戻ることもしばしばある。なかなか一筋縄ではいかない。だから、面白い。ぴしゃりと決まったときは「やった!」という高揚感がある。
「俳句は物を書くべし」「花鳥諷詠」。「考えたことや思ったことは書かない」。「俳句は知識を披講する場では無い」。「言いたい事や主義主張は書かない。もし、そういうことが書きたかったら、エッセイを書きなさい」。「何故考えたことや主張を書かないのか?そんなことを書くと粋にならないでしょう。決して侘び寂びにはなりません」。「見た物を見たまま書く」。「これは面白いと思ったことを書く」。「自然を見て自然を観察し、自然に同化し、自然と一体化すれば、その対象物が勝手にしゃべってくれるようになります」。「俳句の品格を常に考えなさい。俗な季語は俗な句にならぬよう格調を持って」「格調のある季語は、それを壊さないように少しだけ砕けて書いても構わない」。「自分の古い句を自分で添削してみなさい。自分がこんな所で止まっていたのかということがよく解りますよ」。「本を読みなさい」。「不易流行。季節は毎年同じでも毎年違っている。その中に新しいことを見つけなさい」。「和語と漢語を常に意識しなさい」などなど・・・・。
 沢山の格言のようなことをおっしゃっておられました。しかし、わたしが頭が悪いのと書き取っていなかったので、殆ど忘れてしまったのが残念です。

 わたしは長く入院生活をしておりまして、その間に殆ど俳句の本や句会報など捨てられてしまいました。それで、童恋氏の俳句も多くを無くしてしまったので惜しい事をしました。残っていたわずかな句をこのブログに十二回に分けて掲載させて頂きました。
 古典的な伝統俳句に則った、とても素敵な句を作られる素晴らしい俳人でした。

中央やや右の小さな集落が地家室(じかむろ)

遊花有然花はなびらとなりて散る   松井童恋

 地方には沢山の素晴らしい俳人がおられます。そういう方が少しでも紹介が出来たらと思いこの記事を書きました。また、わたしの所にはこのような素晴らしい俳人がおられますよと言う記事があれば必ず見にいきますのでお教え下さい。
 では今回、これで「俳人 松井童恋」は終わりにします。長い間お付き合い下さいまして有り難う御座いました。    
                   合掌

俳人 松井童恋 その1    俳人 松井童恋 その2
俳人 松井童恋 その3    俳人 松井童恋 その4

俳人 松井童恋 その5    俳人 松井童恋 その6
俳人 松井童恋 その7    俳人 松井童恋 その8

俳人 松井童恋 その9    俳人 松井童恋 その10
俳人 松井童恋 その11

 まだ松井童恋氏についてお読みになっておられない方が御座いましたら、上にリンクを張っておきますので、お読み下さい。ではでは・・・・。

鵙の声枯木に残し師の逝けり  照れまん  

(おわり)

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追悼 瀬戸内寂聴大法尼

かきくわりんくりからすうりさがひとり  瀬戸内寂聴

 この句はとっても面白い。ひらがなでやさしく書かれていて、遊び心と切なさが同居している。
 漢字で書くと「柿花梨栗烏瓜嵯峨一人」となる。こうすれば読みやすいかと思うが、やっぱり読みにくい。とにかく堅い感じになる。これをひらがなで書くと読み手はちょっと面食らう。「かきくわ・・・りん・・くりから・・・??」「えーっ、何これ!!」ってな感じ。それを見ている寂聴さんがにんまりと微笑んでいるようで実に楽しい。名詞の順番を変えるだけで収まりが良くなり、随分と読み易くなる。「からすうりかきくりくわりんさがひとり」。しかし、こうしない。柿・花梨(榠摣・カリン)・栗・烏瓜と秋の季語が四つも並んでいる。季重なり、なんてのはどうでも良い。思いついた物を思いついた順番に書いている。豪華!「沢山並んでいて楽しいでしょう!!」と言っているよう。
 季語が三つ並んでいる句は何句か知っているし自分も作ったことはあるが、四つは記憶に無い。これは新記録というか、とっても珍しいと思う。寂聴さんのクスクスと笑う顔が目に浮かぶ。
 何度も読んでいると段々と読み慣れてくる。カ行の「カ」「キ」「ク」の音の面白さ、小気味良さがある。この句は読み手にはちょっと戸惑い感やギクシャク感があるのだがそこが面白い。それらがひらがな表示なのでオブラートに包まれたような柔らかさになる。寂聴さんは自由奔放。思いついた物を思いついたままに書いている。茶目っ気があってユーモアが溢れていて、それでペーソスのある個性溢れる句になっている。とってもユニークで面白い、これこそ寂聴句だと思う。

京都 寂庵

 1985年頃より京都「寂庵」『あんず句会』が開かれるようになります。講師・選者に俳人の黒田杏子氏が招かれ指導されます。『あんず句会』は黒田杏子氏の「杏」の一字を取り、寂聴氏が名付けられたようです。句会には寂聴氏もご出席され、毎月きちんと投句されていたようです。

「あんず句会」第一回
  法臘は十三にして冬紅葉  寂聴

前書きに 「あんず句会」第一回 とあります。おそらく記念すべき最初の句会の一句でしょう。その他の「あんず句会」より二句載せて見ます。

  西行忌バレンタインチョコ奉る  寂聴

 もし、西行さんが今いらしたら、チョコを差し上げるのに・・・、なんて・・・!
「たてまつる」というのですから、どなたか目上の人に献上、差し上げたのでしょうか?それともご仏前にお供えしたのでしょうか?西行さんを敬愛し、悠久の時と現代を感じる面白い作品。
 バレンタインと聞いて、ついついわたしの作った片想いの句を思い出していました。
  [まっすぐに割れぬ板チョコバレンタイン  照れまん]  ナンチャッテ!

  寂庵に初音うぐひす普門品  寂聴 

「普門品」ふもんぼん とは観世音菩薩普門品の別称。観世音菩薩の名を受持することの功徳や、この菩薩が三三に身を変えて世の人を救う事を説いたもの。普門とはあまねく行き渡っている門戸の意。

寂聴さんと永六輔氏、黒田杏子氏と三人はとても仲良し

 寂庵で句会が始まる少し前にこんなことがあったと風の噂に・・・・。
「ねえねえ黒田さん。わたしお金が貯まって貯まってしょうが無いの!どうしたらいいかしらねえ??」
「あらまあ、羨ましい・・・!じゃあ、お寺でもお建てになったらどうですか?」
「あら、それはいいわねえ。どこに建てればいいかしら・・・?」
「そうですねえ。やはり、京都がいいんじゃないでしょうか!」
「そうね、京都がいいわねえ。じゃあ、京都にお寺を建てることにするわ・・・!!」
というのでお建てになったのが、寂庵とか・・・?? これは本当かどうかは解りませんが、何となく信憑性があるような・・・。しかし、我々小市民からすると羨ましい話。他の人が言えば厭味になりますが、寂聴さんならさもありなんと思って仕舞い、ついつい笑顔になってしまいます。

 その後1990年、寂聴師の助言により黒田杏子氏は俳誌『藍生』(あおい)を立ち上げられます。「あんず句会」を元にして作られましたので、あんず句会から多くの会員が「藍生」に参加され、寂聴師もその中に加わり応援されました。

 「藍生」創刊号に寂聴氏がお祝いの俳句を寄せられていますので掲載してみます。当時六十八歳。「藍生のお祝いに好きな言葉を贈ります」とあり、そのお言葉(前書き)と祝句。

 忘己利他 捨ててこそ

  ひとすぢの道朗々と月渡る  寂聴


 門出にふさわしい、いい句だなあと思います。
 ところで、何を隠しましょう、このわたくしも「藍生」創刊号より参加したのであります。従って、寂聴師とは兄弟弟子、姉弟子と言うことになりますでしょうか??

 平成17年(2005年)『藍生』11月号・十五周年記念号 に会員一人一人の短文が載っておりますので、その中から寂聴師の全文を載せてみます。

瀬戸内寂聴 京都
「まわりを見廻せば、なつかしい人、恋しい人はみんな死んでしまっている。残された自分が世の滅亡を見るためにいるようで長生きは貧乏くじを引いたような気さえする。それでも自殺して、なつかしい人々のいっぱいいるあの世へ行きたいかといえばそうでもない。来年は見られないかも知れないと思い、四季折々の風物にしっかり目を据えているし、どっちが先に死ぬかも知れないと思って、わずかに残っている旧友とはていねいにつきあっている」

 この五年後平成二十二年(2010年)『藍生』十二月号 二十周年記念特別号 には一人五句づつの俳句と短文が載っておりますので、この中から掲載してみます。
 寂聴氏の五句は、この記事の最初に掲載しました「かきくわりん・・・」の句と「法臘は十三にして・・・」の句なので、その他の三句を掲載してみます。それぞれに前書きが書かれています。

天台寺にて
  御山のひとりにふかき花の闇    寂聴
  (おんやま)

高野山の杏子句碑に
  句菩薩のこゑみなづきの石のこゑ  寂聴

道後宝厳寺の杏子句碑に
  月満ちて一遍孤愁人満ちて     寂聴

 

稲光一遍上人徒跣(いなびかりいっぺんしょうにんかちはだし)杏子

二十周年記念号の短文。

瀬戸内寂聴 京都
「嵯峨野僧伽での『あんず句会』も今秋二十五周年。『藍生』も二十周年。天台寺住職も二〇〇五年六月まで二〇年つとめた。『花に問え』で谷崎賞を頂いたのは七十歳。以来さまざまな賞が洪水のように押し寄せ、忙しさは増すばかり。米寿を過ぎて死にたいほど毎日が忙しい。でも死ねない。書きたいテーマはまだまだあって書き続けている。」

このように書かれておられます。
 『藍生』二十周年記念号に載っている黒田杏子宗匠の句とわたしの句を一句づつ載せて見ます。

  十六夜の雲わつて飛ぶ一遍忌  黒田杏子

  広島は今も広島雲の峰     照れまん

―――― H――A――I――K――U――――

 寂聴氏と俳句の出会いは1960年代初めの頃であったようです。若手新進気鋭の作家を編集部長の車谷弘氏(俳号 侘助)が「俳句をすると小説の文章が引き締まる。それに、短編の題に困らないよ!」と日本語の言葉の勉強になるからと当時売れっ子になっていた小説家の円地文子さんと二人を永井龍男氏(俳号 東門居)の句会に連れて行かれた。お二人とも俳句は初めてなので、とにかくぼろくそにけなされると言いますか酷評されたようです。毎回ブービー賞にトイレットペーパーを一巻きづつ頂いたとか。それでも、句会が終ると永井龍男氏が銀座の料亭に連れて行ってくれ、ご馳走を振る舞ってくれる。それが楽しみで続けていた。
 しかしある日「円地さんや瀬戸内さんのように、小説が売れている作家には、いい俳句は生れないんだ!」と断言された。それで、円地さんは怒って「わたし、俳句を辞める。もう行かない!」と言い出したので、瀬戸内さんもそれに従い「わたしだって辞めるわよ!」と言うことでお二人とも句会をお辞めになったとか。

永井龍男氏(俳号 東門居)の作られた俳句。銀座の句ともう一句を載せて見ます。

  春銀座また出し忘れたる葉書   東門居

  舟に舟寄せて手花火わかちけり  東門居

 二句ともいい句ですね。情景が目に浮かびます。
 それに致しましても、若い頃の瀬戸内晴美氏やその他の有名人の人達が銀座で楽しんでいる姿に、情熱や活気を感じ、胸が熱くなる思いがします。
 永井龍男氏と言えば小説家ですが、現代で言えば直木賞や芥川賞の選考委員だった人と言った方が解りやすいかも・・・。永井氏の俳句はとっても素晴らしいのでもう少し載せて見ます。

  自転車のベル小ざかしき路地薄暑  東門居

これは現在でも通じる俳句。そうだそうだと思わず納得してしまう共鳴句です。

  如月や日本の菓子の美しき     東門居

この句も本当にそうだなあと妙に頷いてしまう句。和菓子って本当に綺麗ですよね。実においしそう!!
最後にもう一句。

  悴めばなほ悲しみの凝るごとく   東門居

句集「ひとり}瀬戸内寂聴

 寂聴氏はその後俳句はやめてしまわれていたようですが、おそらく1980年前後では無いかと思いますが黒田杏子氏との出会いにより、その後「あんず句会」を立ち上げられ、俳句の魅力に目覚められたようです。

 瀬戸内寂聴さんは自分の葬儀に来て下さった人に記念の句集を渡したいと話されていたそうです。それで、九十四歳の頃、初句集「ひとり」を出版されました。

「おのづからあひあふときもわかれてもひとりはいつもひとりなりけり」一遍
 この一遍上人の歌に人間の孤独の本性がすべて言い著わしていると一遍上人を敬愛し、この中の言葉を句集の題にされたようです。

 瀬戸内寂聴氏のことについては私より皆様の方が詳しいのでは無いかと思います。それで、ここでは文学や寂聴氏の人生や出家については書きません。
 わたしは文学の評論家でも学者でも寂聴氏の研究家でもありませんので、寂聴氏の人生や文学などについては何も語ることが出来ません。実は寂聴氏の小説は一冊も読んだ事が無いので、誠に申し訳なく思っています。『源氏物語』は読んでみたいと思った事はあったのですが、ついついそのままになってしまいました。
 お会いしたことも話をしたこともありませんが、俳句は時々読んでおりました。俳誌ではエッセイや対談などが掲載されておりましたので、それらは読んでおりました。それで、この記事では俳句のみについて書いていますので、どうぞご了承下さい。
 もっとお知りになりたい方は是非本をお読み下さい。400冊以上出版されているそうです。それに YOU-TUBE では法話集なども沢山アップされておりますのでご覧下さい。
 一応、ウイキペヂア のリンクをはっておきますので、ご覧になりたい方はこちらをご覧下さい。

   Wiki「瀬戸内寂聴」  ← リンク。

その他の寂聴氏の俳句を少し載せて見ます。

  仮の世の修羅書きすすむ霜夜かな  寂聴

  子を捨てしわれに母の日喪のごとく  

  生ぜしも死するもひとり柚子湯かな

  おもひ出せぬ夢もどかしく蕗の薹  寂聴 

 寂聴さんはとても楽しい人。しかし、短い俳句の中に寂聴さんの歩まれた人生の悲喜こもごもとした味わいや深み、悲しみが滲み出ているように感じます。

追悼句を二句載せて見ます。

  白寿まで生きたる尼僧冬銀河   京都  清水健一

清水健一氏は「あんず句会」・「藍生」会員。

  顔施顔施顔施顔施雛の間     黒田杏子

 顔施(がんせ) とは布施の一種。和顔施ともいい、人と笑顔で接すること。寂聴さんは「私は顔施と言う言葉が一番好き!!」とおっしゃられていました。にこやかな顔で人に接すれば相手もにこやかになる。そうすればみんなが笑顔になり幸せになる。そうすれば世の中平和になりますよね、と言うことのようです。雛の間(ひいなのま)と五文字に読みます。黒田氏のこの句は寂聴氏の追悼七句の一番最後の句です。

 最後に寂聴氏の短い言葉を載せてみます。

「もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭ける人の心構えなのです」

 令和3年(2021年)11月9日入寂  享年99歳6ヶ月

法名 燁文心院大僧正寂聴大法尼(ようぶんしんいんだいそうじょうじゃくちょうだいほうに)

 最後にもう一句。最初にひらがな表記の俳句を載せましたので、最後もひらがなの句を・・・。

  はるさめかなみだかあてなにじみおり  寂聴           

 今回は 瀬戸内寂聴氏の俳句を、ほんの少しだけ紹介・掲載させて頂きました。俳句の感想は私の個人的な感想ですので、他意はありません。もしお気を悪くされる方がおられましたらお詫びします。それから、誤字脱字や文章の間違いがありましたらお許し下さい。
 拙い文章ですが、これで追悼に変えさせて頂きます。  照れまん  

合掌 

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俳人 松井童恋 その11

俳人 松井童恋氏の思い出 その11「松井家」

枯古木二天の鵙は動かざり  松井童恋

 この句は私の大好きな句。惚れ惚れするほど良い句だなあと思います。
 二天とは二天一流の宮本武蔵。武蔵の描いた水墨画に枯れ木に鵙(モズ)が止まっている画があります。あの水墨画のこと。今し方見た鵙はもう居なくなっている。武蔵の画いた鵙ならずっとあそこに止まっていてくれるのに・・・・。
 この句を最初に読んだのは1990年代の後半では無かったかと思います。その後暫く経って、NHKの大河ドラマ「宮本武蔵」が始まりました。そのエンドロールで武蔵の水墨画の鵙が突然パッと飛び立つ動画がグラフィックで描かれていました。それを見た途端「これだ!!」と思った。誰も考えることは同じなんだなと思ったり・・・。「童恋さん、すごい!」妙に感動していました。

枯木鳴鵙図 宮本武蔵

 松井童恋さんの本名は吉田繁行松井家から吉田家に養子に行かれましたので吉田姓に変わりました。しかし俳句では一生『松井姓』をお使いでした。

 松井家は私の田舎では名家といっていいのか、江戸時代には代々村の庄屋をしていました。山口県大島郡周防大島町地家室、旧白木村の地家室(じかむろ)という小さな集落。そこから廻りのいくつかの集落を束ねる大庄屋のような立場でした。当時、毛利家に陳情する正式文書や公文書を書いていました。藩からは、納税や新田開発・使役など、色んな命令書や通達文書が届き、それを松井家が各村に伝えていました。これらのことから、田舎では大変格式高い庄屋で、皆から信頼されていたようです。
 童恋さんの子供時代、まだ大正時代だったので、江戸時代のそういう意識が色濃く残っていたと思われます。従って、童恋さんは松井家のことを誇りに思い、強い愛着がおありだったと思われます。

螢火の一つ相寄る二つかな  童恋

 それともう一つ話は飛びますが、皆様は松井武雄・松井佳寿恵ご夫妻をご存じでしょうか?恐らく日本人の殆どの方は知らないと思いますが、アメリカ カルフォルニア州選出の民主党下院議員です。奥様もご主人の死後、後を継いで下院議員になっておられます。この松井氏と童恋さんは親戚になります。
 ロバート・マツイ氏のお爺様と童恋さんお爺さんが兄弟です。小さい集落なので三男・四男は土地がありません。従って島から出ていくことになります。明治時代中頃、ロバートマツイ氏のお爺さんはアメリカに移民として渡って行かれた日系一世です。

Robert Takeo Matsui  日本名:松井武男 ロバート・マツイ、又は ボブ・マツイ(1941~2005年)アメリカ生まれ、日系三世。生後半年目、1942年敵国の日系人として家族全員が強制収容所に入れられます。11万人を越える日系人が財産は没収され収容所に送られました。大戦が終り、日系人は解放されますが、ひどい差別と貧乏に苦しみ、スパイなどと罵られる事もしばしば。1960年代、ロバート・マツイ氏は苦労してカリフォルニア大学バークレー校に進学。その後、法務博士を取得。大学で奥様となる後輩の佳寿恵さんと知り合い、後に結婚。サクラメント市議会議員・サクラメント副市長を経て、1978年民主党下院議員に当選。以後、下院議員を13期努めておられます。
Doris Okada Matsui 日本名:松井佳恵恵・まついかずえ(1944~ )マツイ氏の奥様。強制収容所の中でお生まれになっています。カリフォルニア大学バークレイ校卒。心理学士。クリントン大統領時代ホワイトハウスに勤務。

空蝉の掴みしここが本籍地  照れまん

 アメリカはとても人種差別のひどかった国。戦後の日系人は特にひどい差別や露骨な嫌がらせを受けました。しかし、日系人はじっと絶え、地道に働き、努力を重ねました。日本自体も経済発展を遂げ、やがてG5やG7の仲間入りをするほどになり、国として認められるようになります。すると、アメリカの日系人の人権も次第に復権し、認められるようになります。
 マツイ氏は戦争中にアメリカが日系人を強制収容所に隔離したのは正しかったのか?長い間疑問を投げ続けました。アメリカの国籍を持ちアメリカに忠誠を誓ったのにもかかわらず、財産は没収されトランク二個で収容所に入れられたことは民主主義国家として、それでいいのだろうか?
 戦後暫くは「敵国なので当然」という雰囲気で一致していました。しかし、次第にその考え方が変わってきました。そして、長い間アメリカ議会で議論されていましたが1988年レーガン大統領の時、ついに日系人を収容所に強制連行したのは間違いだったと言う結論に達し、憲法違反を認め日系人に謝罪。生き残っている日系人全員に2万ドルの賠償金を払うことが可決されました。
 山口県でもアメリカの強制収容所に送られた人が帰国し生き残っており、突然アメリカからお金が送られてきたとニュースで話題になっていました。確か日本円にすると600万円か700万円くらいでは無かったかと思いますが、私の記憶が間違っていたら御免なさい。
 アメリカってすごい国ですね。過ぎ去った一つのことを四十数年間も議論し続け、そして間違っていたという結論を出し、個人を特定してお金を送金するのですから。日本だったらさしずめ、「申請書を出せ、そしたらお金を払ってやる!」と言うことになるでしょうか?

桜花二番三番なき国歌  照れまん

 話は余談になりますが1975年。私はアメリカのオレゴン州に留学していました。そこのアパート何棟かの真ん中にプールがありました。そこで、日本人の友人3人とそこのプールに泳ぎに行きました。ところが、プールの前で警備員に止められ、「白人以外は駄目だ!」と・・・。「えーー!!」ですよね。「何人(ナニジン)か?」と聞かれたので「日本人だ」と答えると「何をしている(職業は何)?」と聞かれたので「クラシュック音楽の演奏家」と答えると「そうか・・・」といい、ちょっと考えていましたが、「日本人なら良いだろう」とプールに入るのを許可してくれました。
 日本に居たらとても考えられないこと。アメリカってすごい人種差別があるのだとその時に初めて知りました。
 Abraham Lincoln(リンカーン氏)が大統領になったのが1860年ですから、もう100年以上経っているのに、まだそんなに残っているのかと驚いた記憶があります。
 アメリカはアフリカ系・ヒスパニック系・アジア系・中東系など色んな人種が混在していますので、小さなことから深いものまで、色々な差別が残っています。コロナ禍の現在、それらが噴出し、分断が生じています。

 ロバート・マツイ(ボブ・マツイ)はカリフォルニア州ではとても人気の高い政治家。様々な人種差別や偏見と戦い、自由で平等な国になるように尽力されました。又、社会保障や外交、福祉・教育などにも力を注がれました。それで、カリフォルニア州ではとても得票率が高く13回も再選されています。そのような信頼関係があるからでしょう。マツイ氏の死後、奥様が立候補され見事下院議員に当選されています。以後、奥様も8回当選されています。

 ロバート・マツイ氏が訪日された折、雑誌にインタビュー記事が掲載されて居ました。その中でご自分のルーツについて聞かれた時、
「私は日系人ですがアメリカ人なので、今はルーツについて知りたいとは思わない」と答えておられました。
 もし、その場に私が居たら教えて差し上げたのにとちょっと残念です。私は1980年代の村の松井家の当時の当主(今はお亡くなりになっていますが)のお爺さんをよく知っています。小柄で温厚な皆から信頼されている方でした。松井家は頭の良い家系で勉強熱心、真面目で優しく、人の為になる事をされ、人をよりよい方向に引っ張って行かれる、そんな家系では無かったかと思います。そういう松井家の血筋がロバート氏にも童恋氏にも、受け継がれているのではないかと思ったりしています。どことなく、松井家のお爺さんとロバート・マツイ氏や童恋さんの風貌が似ています。

鳴き砂の今は泣かざり終戦忌  照れまん

松井童恋氏の出身地、山口県大島郡地家室(じかむろ)集落

 私は松井童恋氏から松井家の家系図を見せて頂いたことがあります。その中にロバート・マツイ氏のこともしっかりと書かれていました。もしあの時、スマートフォンでも持っていれば家系図を写真に残していたのにと残念です。
 そんなことからも、松井童恋氏が松井家に対する誇りや思い入れがどれだけ強かったかがお解かりになると思います。だから、生涯『松井童恋』だったのでしょう。

 水晶球過去に未来を売る夜店  照れまん

 今回は童恋氏の家系についてちょっと書いてみました.

石一つ天元にあり蝌蚪の陣  松井童恋

(つづく)

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ニホンミツバチ と キンリョウヘン

改革派日本蜜蜂分峰す  照れまん

今回は「ニホンミツバチ」と「キンリョウヘン」を載せて見ます。

2020年春頃、我が家の庭に沢山の蜜蜂が飛んで来ていました。どうやら、床下に巣を作ったらしく通気口から出入りをしています。
蜜蜂は刺さないのでそのまま放置することに・・・。

床下の通気口はこんな感じです。

翌年の2021年春。蜜蜂が文法蜂球(ぶんぽうほうきゅう)を起こしたらしく、巣から出てきて庭木のウバメガシの木にぶっついています。ものすごい数の群れが一塊。

これはいったいどうしたものか・・・?
そこで、島の養蜂家に電話してみることに。
そしたら、「見に行ってみましょう!」と来てくれた。
「これはニホンミツバチですよ。欲しいなあ・・・・」というので、
「どうぞどうぞ、全部捕って行って下さい!」と言うと、蜜蜂の巣箱を木の下に置きキンリョウヘンという蘭の鉢植えを側に置いた。
「この花はニホンミツバチが好きなので、側に置いておきます。これで箱に入ってくれるといいんですが・・・・。暫く様子を見てみましょう。また来ます」と言い帰って行った。

ニホンミツバチ

昆虫綱・ハチ目・ハチ亜科・ミツバチ上科・ミツバチ科・ミツバチ亜科・ミツバチ族・ミツバチ属・コミツバチ亜属・トウヨウミツバチ亜種・ニホンミツバチ

ニホンミツバチは西洋ミツバチより小さくて黒っぽい感じ。

木の下にミツバチの箱とキンリョウヘンの花が置かれています。

キンリョウヘンの花を近くで撮るとこんな感じ。

キンリョウヘン 金稜辺

被子植物門・単子葉植物綱・ラン目・ラン科・シュンラン属・キンリョウヘン

学名 :Cymbidium floribundum Lindl.

和名 :キンリョウヘン 金稜辺

【キンリョウヘンはニホンミツバチをはじめとするトウヨウミツバチの分蜂群や結婚飛行に飛び立った雄蜂の群れを引き寄せる匂い(集合フェロモンと同じ作用を持つといわれている)があり、春先にニホンミツバチの分峰群を捕獲する時に利用されることもある】
とあります。西洋ミツバチにはこの現象は見られないそうです。
だから、この花を持ってきたのですね。納得(◎∪☆)!!

三日ほどして見てみると、箱に少しは入っていましたが、キンリョウヘンの鉢にかなりくっついています。
「違うでしょう!植木鉢じゃなくて箱に入ってよ~~!」ってな感じ。

その後、チラチラと遠くから眺めていた。
一週間程して庭を見ると、「ありゃりゃ、箱がない??」
養蜂家の方が来てくれ、蜂を連れて帰ったようです。私は気が付かなかったのです。昼寝でもしていたのか?残念!どのくらい捕れたのか見たかったのに・・・・???
一匹の蜂もいなくなっていたので、沢山捕れたのでしょう。

さてさて、このあたりで俳句にいきます。

俳句では「蜂」は 春の季語 になります。
蜂は種類が多いいので、傍題が膨大にあります(ヨロヨロ)。
それらを書いてみます。
花蜂(はなばち)・小花蜂・蜜蜂・熊蜂・足長蜂・姫蜂・黄蜂・雀蜂・山蜂・似我蜂・黒雀蜂・地蜂・土蜂・穴蜂・徳利蜂蜂(とっくりばち)・女王蜂・雄蜂・働蜂・蜂飼う・蜂の剣・蜂の針・蜂の子・蜂の王 などばど・・・。『日本大歳時記』にこれだけ載っています。

  一畠まんまと蜂に住まれけり  小林一茶

ニホンミツバチは蜜蜂の中に含まれます。それで、今回は、蜜蜂の句を選んで載せて見ます。

  蜜蜂の重そうに翔ぶ羽音かな    米澤富栄

  蜜蜂のにぶきひかりのむらがれる  中田 剛

  蜜蜂の出で入り出で入る巣箱古り  松本たかし

上の写真、尻尾の黒いのがいますが、これが女王蜂でしょうか??

  蜜蜂の儲け話や菊白し  野村喜舟

この句では菊が季語なので秋の俳句になります。

野村喜舟。1886年~1983年(明治19年~昭和58年)、石川県金沢市に生まれる。子供の頃、東京に移住。14歳で小石川の陸軍東京砲兵工廠に就職。20歳を過ぎた頃俳句を始める。暫くして松根東洋城の主宰する俳誌「渋柿」に創刊号より参加。47歳の時、小倉造兵廠が出来、そちらに転勤。以後小倉に住む。66歳の折、東洋城の「渋柿」の主宰を引き継ぐ。

私が以前から書いている「俳人松井童恋氏」の童恋さんも同じ小倉造兵廠に務めておられました。童恋さんはまだ若く、どうやらお会いする機会はなかったようです。
島に住む「渋柿」に所属していた私の友人が時々見舞いに病院に来てくれました。その時、偶然に松井童恋さんと一緒になり、俳句の話から友人が「渋柿」所属と聞き、
「え~喜舟さんのお弟子さん!」と大変喜び、3人で大いに話が盛り上がりました。童恋さんは喜舟さんや喜舟さんの俳句についてもよくご存じで、とても尊敬されているのが解りました。

 蜜蜂の花粉の足輪ほこらしく  照れまん

キンリョウヘンは中国原産 1400年代に日本に伝来 小型シンビジュウムの仲間 
2021年5月3日撮影

  蜜蜂やしきりに飛んでたのもしき  高野素十

蜜蜂は蜜源を見つけると巣に帰り、ダンスをしてその場所を教える。円形ダンスや8の字ダンスで距離や方角を教えるらしい。このことを突き止めた2人の動物行動学者は1973年ノーベル生理学・医学賞を貰ったそうです。

右の写真は2021年4月19日撮影 

ところで、ハチミツは国産より輸入の方が圧倒的に多いようです。国産品の殆どは西洋ミツバチによる物。ニホンミツバチは体が小さく飛翔距離が短いので、ハチミツの採れる量が少ない。それに、脱走することも良くあるので、飼うのが難しいそうです。ニホンミツバチのハチミツは販売はされているそうですが量が僅かで、個人的に売られていることが多く、統計数字にはなかなか現れないようです。とても貴重品なのですね。

ニホンミツバチは逃亡癖があるようなので、その一派が我が家に来てくれたようです。
ニホンミツバチ頑張れと応援したくなります。

  サングラスのパブロピカソに蜜蜂  金子兜太

以前、ブログに「蜜蜂・蜂」← を載せたことが御座います。お暇でしたらご覧下さい。

今回は ニホンミツバチキンリョウヘンを載せて見ました。
ではでは、また宜しく・・・。

  蜜蜂や倭王卑弥呼はそこここに  照れまん                                             

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銀竜草・ギンリョウソウ

銀竜草夢の如くに立つ夜明  長谷川久代

普通に生活していると、あまり見かけないかも知れない花、銀竜草(ギンリョウソウ)を載せて見ます。
私の村には何カ所か生えるところがあります。

ギンリョウソウ

APG分類体系  キク類・ツツジ目・ツツジ科・シャクジョウソウ科・ギンリョウソウ属・ギンリョウソウ

学名 :Monotropastrum humile(D.Don) H.Hara  (モノトロパストラム ヒューミレ) ヒューミレは背が低い 、H.Hara というのは日本の植物学者 原寛(はらひろし)氏のことであろうか?

和名 :ギンリョウソウ(銀竜草)  
別名 :ユウレイタケ(幽霊茸)、又は  ユウレイソウ(幽霊草)

中国名:水晶蘭

日本全土に自生。樺太・中国・チベット・インドシナなどアジアに広く分布。山地のやや湿り気のあるところに生育。

光合成を行なわないため全体は透けた白色。だから、銀。それで、形から小さい竜に見立てて銀竜草。中国では水晶欄というのが素敵ですね。
花が咲くと柱頭は紺色と書いてあるが確かに中が紺色に見える。雄蘂と雌蘂がこの中にあるようです。

ギンリョウソウは「ツツジ科」というのがどうも腑に落ちない。

一番新しい植物の分類方法のAPG分類体系で、遺伝子の塩基配列を研究した結果、ツツジ科に分類されたそうです。
遺伝子工学が発展したのでこうなったのですね。すごい科学の進歩です。

ギンリョウソウは菌類から栄養を貰う「菌従属栄養植物」で、こういう植物を『腐生植物』と言うそうです。

ベニタケ類の菌糸から栄養を得ているそうです。

4~8月頃に花を付ける 。花が咲いたあとに液果が出来る。1.5㎝くらいの果実は熟すと落ちる。これを、モリチャバネゴキブリが食べてくれると、中に0.3~0.4㎜くらいの小さな種子が沢山詰まっていて、それを一緒に食べ糞としてあちこちに撒いてくれるらしい。
菌類と共生し、モリチャバネゴキブリとも相互共生の関係にあるようです。

北の地方ではゴキブリが居ないのでカマドウマが運んでくれるのではないかと思われるようですが、はっきりとは解っていないようです。

ギンリョウソウは地下に 短い地下茎と太く絡まり合った根から成る塊があり、これで増殖。だから同じところに生えてくれる。
そして、動物が運んでくれる種でも増える植物のようです。

上の写真は、この下にギンリョウソウが咲いていますよと言う写真を載せた看板というか説明板と右は往還道の案内板。
足下を見るとこんな感じです。普通の道路(農道)の端。山の入り口です。

やや右に咲いているのが解るでしょうか。

ここが山越えの旧往還道の登り口。ここから山を登り始めると何カ所かにギンリョウソウが咲いています。

白いのが解りますでしょうか。ギンリョウソウが点々と生えています。

 さて、俳句にいきす。


「銀竜草・ギンリョウソウ」は「夏の季語」(仲夏)


 昔の人達は歩いて山や峠を越えていたのでよく見かけたのでしょう。だから、歳時記に掲載されています。
 私のところは、瀬戸内の暖かい南の地方になるので4月~5月頃に咲いていますが、本州では5~6月頃から7月にかけて咲いているようです。私の持っている『日本大歳時記』には、6~7月頃咲くと書かれていて「仲夏」とされています。ここには僅かな説明と、例句が二句しか載っていません。最初に掲載した句はその中の一句です。
 もう一句も載せて見ます。

  天もる日や銀竜草が発光す  近藤忠

 植物って本当に不思議ですね。色んな進化を遂げて、それぞれがそれぞれの生き方や形をしています。見るだけでもとっても面白いし、感心してしまいます。

 ネットで見つけた俳句も一句載せて見ます。

  銀竜草滝のしぶきを摘みきしや  宮津昭彦

いい俳句ですねえ~!! 
 そういえば、写真に撮った時に水に濡れたような水滴が付いているものもありました。
 実は今回の写真は2014年4月17日~23日と2015年4月25日に写真班が撮ってくれたものです。それがようやく日の目を見ることが出来ました。写真班、ありがとう!!

 ところで、私の村では銀竜草の咲いているところに看板を立てていました。それが裏目に出たのか、現在道路の側に生えていたものは根こそぎ盗られて無くなってしまったそうです。残念ですが看板が裏目に出てしまいました。今は車の時代ですから簡単に盗られるんですね。自然に生えているのを見て楽しんでくれればいいのに・・・・。残念!!(×∪ゞ)

 そういうことで、今回はちょっと珍しいかなと思う夏の季語「銀竜草・ギンリョウソウ」を載せて見ました。

銀竜草ジブリの森に迷い込み  照れまん

後記  今まで記事は Windows Live Writer に書いてブログに投稿していました。それが、記事を書き投稿をクリックするとエラーになってしまい投稿できなくなってしまいました。色々修復を試みるのですがパソコン音痴なので、どうにも解らず。時間が経てば直るだろうかと暫くそのまま放置していたのですが、やはりエラーになり直っていない。
それでとうとう諦め、記事をブログに直接書き直すことにしました。それで、今回初めて WorldPressのブログに直接記事を書いてみました。そういうことで、ブログに直接記事を書いての初投稿です。こちらは、文字の色・形・大きさ、写真の加工などが出来ないようなので、遊びがないなという感じ。今はまだよく解っていないので、そのうち慣れれば色んな事が解るかも知れないと思って居ます。
そういうことで、これからもぼつぼつと偶(タマ)に書きますので、宜しく・・・・。

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「行火・アンカ」

 2021年1月。電気アンカの調子がよくなくて、時々冷たくなってしまう。見てみるのだけど、どうも本体横に付いているコントローラーのダイヤルの接触が悪くなっているらしい。長年使ってきたアンカなので仕方が無い。

DSC_3148 父と私の2代が30年以上使った日立の行火

 そこで、新しいものを買うことにした。
 今まで「YAHOO ショッピング!」を殆どしたことは無かったが、やり方が解ってきたのでしてみることに・・・。
 サイトを開くと沢山の行火が並んでいる。同じ商品なのに値段が違う物が何箇所かに。・・・なんで?と思いながら一通り見てみた。千円台から一万円を超える物まで沢山並んでいる。その中で、自分の一番気に入ったものが Panasonic のソフトアンカ。値段は7000円台から12000円台まである。同じ商品なのにどうして?と思うが安いものも同じならこちらを買ってみようかと7600円のものにした。
 無事手続きが終り、5日ほどした2021年2月2日商品が届いた。送料・手数料込みで ¥8,602、-。
 使ってみたがなかなかいい。これは正解だなと思った。今までのものは本体にスイッチ・ダイヤルが付いていたが、今度のは手元にダイヤルのメモリ・コントローラーが付いているのでこれが非常にいい。スイッチが入っているかどうか?強弱はどのくらいになっているかが一目でわかるのでGood。

DSC_3166

 説明書には「中国製」と書かれている。今時の商品は殆ど中国で作られているのだなとちょっと疑問に思うが、まあ仕方が無いのだろうと思う。
 それから2ヶ月ほどして、もう一度「YAHOOショッピング!」のアンカをのぞいてみたら、同じ商品が¥22,600,-になっていた。
「うわ~、高くなっている~!!早く買って良かった!」と思った次第。

・・行火 ◆あんか ●アンカ ◇ANNKA ・・

[国語辞典] 
行火 あんか :炭火などを入れて、手足を温める器具。電気行火。

 行 と書いて「アン」と読むのは何故??と疑問に思ったのでもう少し調べてみる。

【字通】 
行 コウ(カウ)、ギョウ(ギャウ)、アン。ゆく、おこなう、みち。
行 、十字路の形。交叉する道を言う。「人の歩趨なり」、1⃣みち、2⃣ゆく・やる・ゆくゆく、3⃣おこなう・なす・もちいる、4⃣たび・みちのり、5⃣めぐる・ならぶ・れつ、6⃣まさに・まず・はじめる、7⃣軍行の列・みせのならび・ところ・あたり、8⃣歌の一章を歌う・歌行

[妙義抄] 行 ユク、イデマシ、ヤル、アリク、アルク、サル、ニグ、イネ、サケツ、ミユキ、ミチ、フム、メグル、オコナウ、ワザ その他幾つかあり。

妙義抄 『類聚妙義抄』(るいじゅみょうぎしょう)平安時代11世紀末から12世紀にかけて日本で成立した、漢字を引く為の辞書。
 これには、行 と書いてアンと読む読み方は書かれていません。それで、調べると 行アン は唐音と書いてある。室町時代には宋音と呼ばれる。それで、唐・宋音とも呼ぶ。
唐・宋音とは、遣唐使の中止で途絶えていた日中間の交流が、平安末・鎌倉時代初期から再開し、室町・江戸時代に盛んになり禅宗の留学僧や民間貿易の商人達によってもたらされた。
唐宋音は鎌倉時代から江戸時代までに音読みにおいて中国から入ってきた字音。
行・アン は、行火(あんか)・行灯(あんどん)・行脚(あんぎゃ)・行宮(あんぐう)などに使われる。
その他に入ってきた言葉では「団栗」(どんぐり)や「饅頭」(まんじゅう)・湯婆(たんぽ)・「餡」(あん)・「椅子」(いす)「外郎」(ういろう)・「胡散」(うさん)・「銀杏」(ぎんなん)など、その他多数。
唐音 は体系的なものでは無く、断片的に特定の語として入ってきた。
 唐音は唐の時代を指すのでは無く、広く中国から入って来たという意味のようです。
「行」は最も古く日本に入ってきた呉音では「ギョウ」。その後、漢音読みの「コウ」が加わり、後の鎌倉から江戸時代にかけて唐音の「アン」という発音が加わったようです。行 には「旅」とか「運ぶ」「もちいる」という意味があるので行火・行灯などと使われるようです。

 さて、俳句ですが、俳句では「行火・あんか」は冬の季語傍題に「ねこ」・「ねこ火鉢」・「電気行火」が書かれています。大歳時記の説明はとても短く、例句も僅かしか載っていません。それで、少しだけ俳句を載せて見ます。

  電気行火座右に竹山嵐きく   臼田亞浪

臼田亞浪(うすだあろう)、本名:臼田卯一郎。明治12年~昭和26年(1879年~1951年)長野県北佐久郡小諸町に生まれる。1904年和仏法律学校(現法政大学)卒業。在学中に短歌を与謝野鉄幹俳句を高浜虚子に学ぶ。大正4年俳誌『石楠』(しゃくなげ)創刊。松尾芭蕉・上島鬼貫を敬愛し、自然詠を志す。昭和20年3月10日、東京大空襲により印刷所罹災。西多摩に疎開。昭和21年印刷所を長野に移し『石楠』復刊。
臼田亜浪の俳句にこんなのがあります。
  夜着の中足がぬくもるまでの我れ  臼田亞浪
この句の季語は「夜着」です。冬の季語。夜、寝るときに使う袖の付いた長い布団。褞袍(どてら)を長くしたような物。傍題に「掻巻」(かいまき)・「小夜着」(こよぎ)があります。夜着は私が子供の頃に寝るときに使ってました。布団の上から掛けてもいいし、布団の中にしても密着するのでとても温かいので具合がいい。袖が付いているので炬燵に入るときなんかに肩に掛けて袖を通したり・・・。昼間に着たりして遊んでいましたが、暖かいし長いのでとても面白かった記憶があります。最近見なくなりました。
前の句とこの句は全く別の句なんだけど、この句のあとに、前の句を続けて読むと面白い。夜着の句の時は行火の中に足を入れなかったのかなと思ったりすると楽しい。
 私の好きな俳句は
  にこにこと笑うて暑きこの世去る  臼田亞浪
本当に「俳」・「諧」に生きた人だなあとつくづく思います。素晴らしい俳人。

  古行火抱き足らぬ火の乏しさに   富田木歩

富田木歩(とみたもっぽ)、明治30年~大正12年(1897~1923年)。生まれる前は、東京向島の大百姓の旧家だったが、明治22年大火にあい殆どの財産を失う。そのあと、明治30年に木歩が生まれる。生まれた翌年、高熱を発し両足が麻痺、歩行不能になる。身体障害者になったため学校には行けず。それで、姉が少しづつ「いろはがるた」や「軍人めんこ」などから読み書きを教える。木歩は大変利発な子でそのうちに少年雑誌などが読めるようになる。明治43年、東京は大水害に遭い、父親が経営していた鰻屋が水没し、ますます貧困になる。木歩は友禅型彫りの仕事に行き始めるがそこでひどいイジメに遭い仕事を辞める。その頃から少しづつ俳句を作り始める。大正4年17歳の折、臼田亜浪に師事、『石楠』に投句開始。その頃、初めて俳句の弟子が出来る。その後、めきめきと頭角を現し、俳人として名が知れるようになる。晩年結核になるが、俳句仲間や弟子が寄付やカンパをしてくれて治療費や入院費用を出してくれる。木歩にとっては俳句が唯一の楽しみであり多くの人との繋がりで結ばれてていたようです。
自分で木の足を作った事があり、ここから俳号を「木歩」としたらしい。ただ、その木の足は使い物にはならなかったようです。そして大正12年、関東大震災という未曾有の大災害に遭遇し、火災に巻き込まれ焼死。まだ僅か26歳という若さでした。歩行不能・貧困・無学歴・肺結核の四重苦。それに加え大変なイジメにもあい、父が死に母も亡くなり、弟はろうあ者であり、身内が結核になりその看病をしていたことから結核に感染。五重苦・六重苦です。不幸を背負っていたような人。世の中は実に理不尽だと思うのですが、それでも、俳句が唯一の救いであり希望だったのが一縷の光です。もう少し木歩の句を読んでみたいですね。それで、一句だけ載せてみます。

  夢に見れば死もなつかしや冬木風  富田木歩

季語は「冬木風」ふゆきかぜ。身内が次々に亡くなったり、最初の弟子が隅田川で遊泳中に溺死したりしています。随分年を取ってから詠んだ句のように読めますが、実際は20代でこのような句を詠んでいます。すごい俳人です。

  行火守る木乃伊の婆々に冴え返る  河野静雲

  妻へも這ふ電気行火の赤き紐    細井埒人

  夫帰らぬ夜より行火を使ひそむ   細井みち

  旅先の真つ赤な電気行火抱く    岡本 眸

  根の国に潮の寄せくる行火かな   古舘曹人

「根の国」とは、日本神話に登場する異界、又は黄泉の国。この句では出雲国・島根県と読むのがいいのではないかと思うのですが、如何でしょう??

  芭蕉忌の行火たまはる瑞巌寺    沢木欽一

芭蕉忌は陰暦十月十二日。冬の季語。瑞巌寺は宮城県宮城郡松島町にある臨済宗のお寺。松尾芭蕉が訪れたのは有名。それにより、現在十一月に芭蕉祭が行なわれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 冬の季語になっている暖房具には色んな物があります。炬燵・湯湯婆・懐炉・ストーブ・暖炉などは今でも使われていますが、今ではあまり見かけなくなった物に、火鉢・炭(すみ)・炭火・炭俵・埋火(うずみび)石炭・練炭などがあります。外国の物ではペチカや温突(オンドル)などがあります。日本人が朝鮮半島や満州に沢山出掛けていたので季語になったのでしょう。
 我が家には今でも木製の長火鉢があり、たまにお客様があるときに使い鉄瓶を掛けています。
 子供の頃、母が風呂焚きをする時に、冬は豆炭を入れて、豆炭行火を入れてくれていたのが懐かしい。

 今の時代はエアコンですが、私の持っている『日本大歳時記』にエアコンは載っていません。夏冬兼用なのでややこしいですね。「暖房」か「冷房」で詠むことになるようです。
 そういえば韓国からの留学生が「日本の冬は寒くて適わない!」と言っていた。それで友達が「エアコンを点ければいいのに?」と言うと、「駄目だよ!余計寒くなるじゃん」と言う。そこで、友達が部屋のエアコンを見に来てくれ、スイッチを入れると暖かくなる。「ほら!暖かくなるでしょう」と言うと、「ホントだ!韓国のエアコンは冷房だけだよ。日本のエアコンは冷房と暖房があるのを知らなかった!!」という話が韓国人サイトにありました。本当でしょうか??

 そういうことで、今回は冬の暖房具「行火」を載せて見ました。

一晩の安心安眠行火かな  照れまん

 私のつまんない俳句を載せて御免なさい。4年前に具合が悪くなり、俳句を止めてしまったので、今は作っていないのです。それで、今回急遽一所懸命考えたのですが無理でした。ろくな句は出来ませんでした。残念!!

  部屋に居て指一本で行火買う  照れまん

切腹(★∪ゞ)!!じゃ、また・・・・。
文章の中に誤字脱字、間違いがあるかも知れません。そこの所はお許し下さい。

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俳人 松井童恋 その10

俳人松井童恋氏の思い出 その10 「奥様の死去」

 1993年、童恋氏の奥様は脳梗塞で倒れられ入院。その介護に童恋氏は付き添いをされていました。四ヶ月ほど入院・介護生活をされ、リハビリなどにも励まれておられましたが、これ以上は良くはならないだろうと言われ、病院に居るのは大変なので自宅に連れて帰ることになりました。自宅に帰られてからはご主人の童恋氏が介助や介護、毎日の炊事や洗濯など家事全般をされていました。子供が居なかったので、全て童恋さんがされていました。

落葉掃く拾得箒持ちしまま  童恋
(おちばはくじっとくほうきもちしまま)

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「寒山拾得図」葛飾北斎の肉筆画。すみだ美術館(墨田区)所蔵。北斎の真筆か?別の絵師が書いたものか?話題に・・・?

 退院した後2ヶ月か3ヶ月に一度は病院に奥様の薬を取りに通って来られました。
 朝9時頃病院のマイクロバスで来られ、12時頃に帰って行くという感じです。薬を貰った後、とても長い待ち時間があるので私の部屋に見舞いに来られ、ベッドのそばでよく話をされていました。実は入院中よりもこの時の方が話はよく出来ました。入院中の時には、周りに色んな人がをり、お茶を飲みながらの世間話が多かったので,あまり俳句のことや個人的な話は出来ませんでした。それで、この時に多く話を聞かせて頂きました。戦争中の話もこの時に色々聞聞かせて頂きました。
 そんな時に、
「あなたは俳句歳時記を読んでらっしゃる?」と聞かれたので、
「いいえ、私は歳時記は持ってないんですよ!」と答えると、
「そう、それじゃあ何とかしてあげましょう。」と言って帰られた。
その後は3~4ヶ月何の音沙汰も無かったので、あれは何だったのだろう?と不思議に思っていた。「まあいいか!」と言う感じで忘れかけていた。そしたら、突然俳句の投句用紙が送られてきた。
『みかんの島俳句大会』がありますので投句して下さい!と書かれていた。
 それでは出しましょうと2句投句した。その後暫く何の音沙汰も無かった。
 3ヶ月くらいした時、突然『周防大島俳句会』の会員の方が尋ねて来られた。
「おめでとう御座います。俳句大会で特選を受賞されました。それから、会長賞も受賞されました。会長賞は『日本大歳時記』が副賞に着いています!!」と賞状や『日本大歳時記』を差し出された。
 突然のことで驚いたが「有り難う御座います」と丁重に頂いた。
 それでやっと、童恋さんの言われたことが納得出来た。こういうことだったのかと遅まきながら理解。それにしても粋だなあと感激(☆∪☆)!!素敵ですよね。まるで江戸っ子みたい。東京で長く仕事をされていたので当然なのかとも思った。童恋さんはその時「周防大島俳句会」の会長に就任されていました。
『日本大歳時記』はその後毎日のように読ませて頂き、今でも大事に使わせて頂いています。
「童恋さん、粋な計らい、有り難う御座いました!!」
  

DSC_3936   DSC_3972

『日本大歳時記』最後のページに年月と俳句が添えられていました。
[ 平成八年(1996年)10月13日
  秋に入る小草の先のかたきかな  童恋
            第21回大島合同句会  会長賞として贈 ]
と書かれていました。
それで、私がその左ページに受賞した俳句を書いています。
  ほうたるを指輪の如く渡しけり  照れまん 45歳
随分若いですね。

 童恋さんは自宅で奥様の看病をしながら句会に頻繁に出掛けられていました。下関や四国に遠出されるときには親戚の人や近所の人、介護士の人が介助されていたようです。童恋さんの住む村は小さな集落ですがとても仲がよくって文教地区のような村。皆がよく助け合い、色々面倒を見て下さっていたようです。それも、童恋さんの人徳の為せる技でしょう。
 退院後、足かけ9年ほど闘病の末、平成14年(2002年)3月21日、奥様は亡くなられました。その日は丁度彼岸の中日でした。
 1945年、終戦のすぐ後に結婚され、途中横浜に出て行かれ、定年を過ぎて帰郷。長い間苦楽を共にされ、57年間添い遂げられました。それだけに、とても悲しかったでしょう。
 何句かの俳句が詠まれていますので一部書き出してみます。

  春愁や鏡に失せし妻なりき   童恋

  妻の亡き鏡台に置く一輪草

  夕顔やこけしの髪に櫛あつる

  雪女今縫ひあげし衣きて

  啓蟄やその終るまでいのちもて  童恋

胸にジーンとくるものがあります。とても素晴らしい心に沁みる俳句ばかりで、涙を誘います。

 童恋さんは、いつも出掛けられる時はこざっぱりとした装いでとてもダンディーでした。初老の紳士然とされていました。いつもは標準語で喋られるのですが、時としてものすごい山口弁と言いますか大島弁で喋る事があり、そのギャップがとても面白く笑わせて下さいました。

 最後にもう一句だけ載せて今回は終わりにします。

凍蝶の仮死そのままに終るらむ  童恋

(つづく)

「俳人 松井童恋 その1」 ← はこちら

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俳人 松井童恋 その9

俳人 松井童恋の思い出 その9  奥様の介護

道をしへ来迎仏と出合ひたり  童恋

 私が童恋氏と初めてお会いしたのは、おそらく1993年頃では無かったろうかと思います。私が入院中、童恋さんの奥様が脳梗塞で倒れられ、救急車で病院に運ばれてきました。かなり重傷で半身不随。言葉も発することが出来なくなっていました。二人部屋の狭い部屋に入院されましたがご主人の童恋さんが付き添いに付いておられ、甲斐甲斐しく世話をしておられました。童恋さんは小柄ですが奥様は当時としてはかなり大柄な人。蚤の夫婦と言えばいいでしょうか。リハビリに連れて行くのも車椅子に乗せるのも大変で、リハビリの先生が来て移動を手伝って居られました。

周防大島町立東和病院周防大島東和病院

 童恋さんは大変こまめで几帳面な人で、毎朝5時頃には起き、顔を洗われた後、先ず散歩に出て2~3㎞歩いていました。その歩く速さがとても早く、毎日少しづつコースを変え、南の方に歩いたり、北や西へと歩いていました。朝6時までには帰ってきて、看護婦さんが来る前に身の回りをきちんと整えていました。
 奥様に朝食を食べさせた後自分の食事をし、後片付けや食器洗い。それから洗濯をして屋上に干しに行く。午後は、隣村へ自分の食事の買い物に出掛けられたりしていました。夜はベッドの下から簡易ベッドを出して寝ていました。日曜日はよく出掛けられていたので、後で思えば、句会の指導に行かれていたのでしょう。
 私の部屋の向かいの部屋だったのですが、全く存じ上げなかったので、廊下で挨拶をするくらいで二ヶ月が過ぎました。
 私の部屋では土・日にアフタヌーンティーと言いますかお茶をしていました。患者は見舞いにお菓子を貰うことが多いので、それらを持ち寄りおやつの時間を楽しんでいました。当時は付き添いさんが沢山居たので、誰かがお茶を淹れたり、紅茶やコーヒーを淹れたりしてくれていました。そんな時、
「向かいのご主人にも声を掛けてみましょうか?」と言うことになり、声を掛けたところ「行きましょう」と部屋に来られて話をするように・・・。初めは世間話などをしていました。
「小まめによく動かれますね?介護は大変でしょう」と言うと、
「長い軍隊生活が染みついちょるけえのんた。動くのが当たり前なんよね」などと言われてました。
 暫くすると誰かが
「あの人は俳句の先生らしいよ」と言うことを聞きつけ、部屋の人は私が俳句をしているのを知っているので、「見てもらったら!」と言うことになった。
「いいですよ。いくらでも見て上げますよ!」と。
 私は「素人ですから・・・恥ずかしいなあ~!」と言いながら何回目かのお茶の時に初めて俳句を見て貰う。
 私の作った俳句を見せると、もうボロカス。大体俳人と言うのは口が悪いですよね。童恋さんは口は悪いのですが喋るととても面白い。みんなで笑いながら聞いていました。
 俳句の話もですが、童恋さんの話はとても面白く、人を引きつける魅力がありました。ある日には、
「これ、電子辞書なんだけど、とっても便利だよ!」と持ってきて使い方を教えて下さり、難しい漢字を出して大きくしたりして「どう?これってすごく見やすいでしょう」などと、新しい物好きな所も。

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 その後「これを差し上げましょう」と俳句手帳を頂いた。とてもしっかりした皮のようなビニールの表紙に厚紙のカバーが付いているきちっとした物。最後のページに俳句が添えられていました。

 

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平成5年(1993年)10月24日

蟹出でてすぐかくれけり磯の秋  童恋  

裏表紙に日付が書かれ、この句が添えられてとぃました。

この俳句手帳に私が最初に書いたのがこの句、
  台風の落としてゆきし栗拾ふ    照れまん (1994年11月15日)
その他にはこんな句が書かれています。
  浮輪の子四畳半しか沖に出ず    照れまん  (1995年7月14日)
一番最後のページの最初の句と最後の句
  繭の中やがてモスラになる子かも  照れまん
  遠花火遺言状の封を切る      照れまん  (1997年5月9日)

 暫くして、「あなたはどこか句会に入ってらっしゃるの?」と聞かれたので、
「東京の黒田杏子氏主宰の『藍生』(あおい)と言う結社に入ってます」と言うと、
「えっ、そうなの。それを先に言いなさいよ。どうしてそんないいところに入っているの?」と聞かれたので、
新聞や週刊誌など色んな所に投句をしていたこと。その中に、毎日新聞に月に一回「女の新聞」というページがあり、そこに『楽句塾』があり、その選者が黒田杏子氏であったこと。そこに投句していたのだが何故かよく入選させて頂き、秀逸から特選を頂いたこと。その後、黒田宗匠からお手紙を頂き、『藍生』という俳句結社を立ち上げるので参加しませんかと・・・。それで、1990年創刊号より俳誌『藍生』に参加したこと。
 そのような色んないきさつを話し、『楽句塾』に最初に入選させて頂いた句の話をした。

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[1990年12月6日、毎日新聞『楽句塾』   と   俳誌『藍生』

「最初の入選句はこんなのでした」と・・・。

ヴィオロンを日傘の中に抱く少女  照れまん

 それで、この句のことを含む昔話などを話した。
 子供の頃田舎でバイオリンを習っていたこと。ふたいとこの姉妹が先に習っていて、その親がお医者さんで、父といとこだったので、「あんたの所も習わせたらいいのに」、と言うことになり、私と兄も習うことに。それで、バスで通っていたこと。そのお姉ちゃんの方はちょっと大人っぽくておしとやか。妹はお転婆でキャピキョピ。バス停がお菓子屋さんだったので、妹と私はそこを出たり入ったり。その時、お姉ちゃんは日傘を差してちょっと離れたところで佇んでいた。そんな昔を思い出して俳句にした事などを話をした。その姉妹はK医師の娘さんで横浜で開業するため小学生の頃横浜に引っ越していったこと。その横浜の家に私はよく遊びに行っていたことなども話した。
 そしたら、「あんたはどこの子かいねえ」と聞く。
「○○村の○○の息子です」と言うと、
「えーっ、内の女房はそこのK医師の所で看護婦をしていたんじゃがねえ」
「え~~!!嘘でしょう(☆∪☆)」
 二人とも驚いて、ただただ顔を見合わせた。戦前・戦後、K医師は我が家の隣で開業してました。どうやら昭和21年に私の姉を取り上げてくださったのが童恋さんの奥様らしい。
 童恋さんから、K医師と一緒に横浜に行ったこと。奥様がそこで婦長をしていたことなどを聞いてびっくり。二人共あんぐりとした顔をしていた。
 私は横浜のK医師宅に遊びに行っていたこと。姉妹はバイオリンを続け、東京の音大に入ったことなど。私が東京でコンサートがあると、K医師夫妻が聞きに来て下さっていたこと。
「世の中、狭いねえ。どんな縁があるか解らんもんだねえ」と二人ともただただ驚いていた。
 松井童恋氏の松井家と我が家とは江戸時代より大変に繋がりの深い家柄だったのです。
 それで、童恋さんに「奥様に挨拶に行ってもいいですか」と言うと、
「どうぞ来て話しかけてやって下さい」というので見舞いに伺った。
 童恋さんの奥様に、「私は〇〇村の○○の息子です」。そして、K医師のお嬢さんと一緒にバイオリンを習っていたことや横浜に度々遊びに行っていた事などを話した。すると、片方の手で私の手を握りボロボロと涙を流され一所懸命何かを喋ろうとされている。
 私が「長い間横浜のK医院や色々お世話になりましたねえ。有り難う御座いました」と言うと頷きながら涙を流され、子供のような笑顔で何度も何度も私の手を握られた。私には「懐かしいねえ・・・、会えて嬉しいよ・・・・」と言ってるように聞こえた。
 その後は毎日、奥様に挨拶に行った。いつもニコニコしながら手を握って下さった。
 童恋さんとやっと親しくなった思った矢先、
「病院にいると大変なので家に連れて帰ります!」と、奥様が入院されて四ヶ月した頃、退院されることになった。

月下美人聖書の神は裸身なり  童恋

「あなたは音楽家とおっしゃっていたよね!」
「はい、昔下手なチェロ弾きをしてました」と答えると、
「あなたは音楽家だから音楽の俳句を作るのは素晴らしいことです。専門家の知識を専門家の言葉で書くのでは無く、出来るだけ解りやすい言葉で誰にでも解るように平易に作りなさい。そこから、色んな所に俳句を広げていけば必ずいい俳句が詠めるようになります。俳句は止めないで、ず~と続けて下さい。そうしたら、きっといいことがありますよ!」と言葉を残されて退院されて行った。

  蚊遣香焚く平凡の一隅に  童恋

 

俳人 松井童恋 その1 ← よろしかったらご覧下さい。
        その2 以降はその1のページ右上に次の記事とありますのでそこをクリックして下さい。

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白梅・紅梅

梅一輪一輪ほどの暖かさ  嵐雪

今年も梅の花が咲いてくれました。
我が家には数本の梅の木があります。昔は梅干しを作っていたのに、最近作らなくなってしまいました。

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むめがゝにのつと日の出る山路かな  芭蕉

DSC_3428 上は一本目

しら梅に明る夜ばかりとなりにけり  蕪村

下は同じ白梅でも、少し花の形がし違います。

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紅梅も一本あります。雪の日の紅梅。

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白梅のあと紅梅の深空あり  飯田龍太

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次に、2013年に撮った写真を一枚。

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以前、2008年に書いた古い記事があります。よろしかったらご覧下さい。
「白梅」← の記事。

「紅梅」← の記事。

毎年きっちり咲いてくれるのがありがたいですね。

しらうめの一輪にして雪月花  松井童恋

今回はこれだけです。また宜しく。

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俳人 松井童恋 その8

松井童恋氏の思い出 その8 俳誌『其桃』

書初めの筆にけものの貂はしる  童恋

 童恋氏は慣れない横浜での生活を始め、東京の会社に勤め始めます。
 昭和30年代は激動の時代。中堅の新聞社とはいえ、大変忙しく、毎日あちこちへと取材に出掛け、原稿を書いていました。博報堂などにもよく出入りをしていたそうです。
 物を書くのは大変性に合っていたのか、そのまま長く同じ会社に務め、定年まで働きました。これは後に田舎に帰った後の話ですが、暫くして毎月集落の新聞地家室便り』(じかむろだより)を発行しています。村の歴史や行事など色んな事を書いていました。新聞を作るのが板に付いていたと言うか、余程お好きだったのでしょうね。
 東京横浜時代の俳句ですが、俳句は個人で続けていたようで、どこかの結社に所属することは無かったようです。随分経ってから仲間が出来たのか、季刊誌のような物を作り、そこで俳句を発表したりしていたようです。

 東京・横浜で30年近くが過ぎ、夫婦共に定年を迎えた後、1980年前後に山口県に帰郷しました。

 古里に帰り先ず行なったことは、山口県にある俳句結社に所属すること。山口県には幾つもの俳句結社があります。その中から、俳誌数点取り寄せ、どこに所属しようか検討されたようです。その結果、下関にある俳誌『其桃』(きとう)に入会することを決めました。

 

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 下関の俳誌『其桃』は1932年(昭和7年)に創刊された長い歴史のある俳誌。芭蕉の流れを汲む美濃派の再興に取り組まれた西尾其桃(1868~1931年)が伝統と格式を重んじ、この地で熱心に俳句指導をされていました。
 西尾其桃は兵庫県明石市垂水の出身。子供の頃近所のお寺の三千堂という僧侶に俳諧の手ほどきを受ける。その後、柳庵一瓢、他何人かの俳人に師事。医学生を志し長崎に行く途中、何故か山口県で下車。長門市の旧大津郡油谷町の内藤医師の書生となり奉公。そこでお金を貯め、大阪の府立医学校に進み医者となる。そして、下関で開業します。
其桃氏は下関市に西尾病院を開設され院長を務めながら、時に上京し森山鳳羽氏に俳諧を学び深める。その他、多くの俳人と交流を深め、明治・大正・昭和の俳人として活躍されました。
 昭和6年、旅先の和歌山県白浜で客死。まだまだ63歳の働き盛り。ようやく息子が後を継ぎ、好きなことが出来るようになったと思った頃の少し早過ぎる死でした。其桃氏の没後、その指導を受けていた息子で病院長に就任していた西尾桃支(とうし)氏が父の意思を受け継ぎ、翌年1932年父の名を冠した俳誌『其桃』を父の友人の東桃園(あずまとうえん)と創刊。
 『其桃』はその後、桃支氏の息子、孫にあたる西尾豊氏に受け継がれ、またその後中村石秋(なかむらせきしゅう)氏へ。そして、現在は池田尚文氏へと受け継がれています。
 童恋さんが入会したのは中村石秋時代だと思います。おそらく、きちっとした伝統的な俳句スタイルが自分に最も合っていると思われたのでしょう。1982年其桃合同句集『桃影第五輯』の二十句初投句。翌1983年1月号の雑詠欄に四句が初掲載される。童恋氏は遠く大島郡から下関へと其桃の俳句大会や吟行会に何度も出掛けられ石秋氏と親交を深められました。余程信頼されたのでしょう。暫く後に其桃の同人になられ、添削コーナーを受け持たれるようになりました。

  しらうめの一輪にして雪月花  童恋

 そしてもう一つ大事なことは、帰郷して大島郡にある句会に参加すること。大島郡には、大きな集落には句会があり、それを束ねる大島郡俳句協会がありました。俳句協会の会長をしておられた田中耕蝶氏と意気投合したのか、暫くして副会長になります。新しく他の村にも句会を立ち上げたり、特別養護老人ホームなどで俳句の指導をされるようになりました。俳句協会の会長さんが亡くなられた後、童恋さんが会長の後を継ぎ、島の俳句会の発展に大いに尽力されました。教育委員会などにも働きかけ、町の公民館での俳句講座を開かれたり、学校に指導に行かれ俳句教室を行なわれたりしました。年に二度、春と秋に郡の句会のメンバーが一堂に会し、「周防大島みかんの島俳句大会」を開催。メンバー全員が投句して合同句集『屋代島』を編纂。2000年前後には島内に12~13の句会があり大変賑やかに大会が行なわれていました。東京から俳人を招いたり、山口県の俳人や愛媛県の句会などとも広く交流されていました。
 「山口県俳句大会」の選者もされるようになり、毎年出掛けられていました。山口県の俳句大会は毎年、市や郡の持ち回り。それを、2007年大島郡に招聘され、大島郡で開催し大いに盛り上がる大会になりました。このように、大変精力的に活動されておられました。

 ところで、童恋さんの俳句で、『其桃』に掲載されたものの中から、私のお気に入りの句を一句紹介します。

三猿の手のおきどころ萬愚説  童恋

225px-The_Three_Wise_Monkeys,_Nikkō_Tōshō-gū;_April_2018 三猿 The three wise Monkes   ( See no evil monkey, Hear no evil monkey, Speak no evil monkey)

 いい句ですねえ~。いつの間にか年を重ねると色んな事が起きます。ちょっとしたことで相手のことが気になるので「こうしたらいいのに!」と楽になるようにと簡単にアドバイスしたら、「ガガガーッ!!」と反論され、目を丸くして首を縮める。私が言ったことが正反対に取られてしまい、予期せぬ反論・反撃に合ってしまう。「言わなきゃよかったー!」と思うのだが後の祭り。そんなことがよくある。そんな時に、この句を思い出す。見ても見ぬふり、聞いても聞かぬふり、言いたくても絶対に言わないように。それが、世の中うまくいく秘訣だとぐっと飲み込む。若い時には自由に意見を言っていたのに、年を取ると色んな事が難しくなります。

物云へば唇寒し秋の風  芭蕉

 余計なことを言えば災いを招きますよと・・・・。三猿の句は、この芭蕉の句に通じるところがあると思います。芭風・美濃派の再考を掲げておられた其桃氏の思い。それを童恋氏もよく理解され、賛同されていた。だから、童恋氏が『其桃』を選ばれたのだろうと言うことがよく解ります。
 童恋氏は俳句の話をされる時、よく芭蕉の言葉を口にされていました。「不易流行」・「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」・「古人の跡をもとめず、古人のもとめたる所をもとめよ」。その他、沢山の言葉をおしゃってましたが、その中から一つ。
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通する物は一なり」。この言葉を教えて頂いた後に私の作った句、

  絵師歌人茶人俳人花衣  照れまん

 この句を読んだ童恋氏。「君は面白い句を作るねえ~!とってもいい句だよ。もし有名俳人がが作った句なら名句になるけど、君が作ったのでは・・・・残念だねえ~!!」と言うので、二人で顔を見合わせて笑った(☆∪☆)。
 私が笑いながら「これは、『曲水の宴』を詠んだものなんですよね!」
と言うと、「なるほどねえ~」と頷いておられた。

(つづく) 

俳人 松井童恋 その1 ← よろしかったら、こちらをご覧下さい。

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