白梅・紅梅

梅一輪一輪ほどの暖かさ  嵐雪

今年も梅の花が咲いてくれました。
我が家には数本の梅の木があります。昔は梅干しを作っていたのに、最近作らなくなってしまいました。

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むめがゝにのつと日の出る山路かな  芭蕉

DSC_3428 上は一本目

しら梅に明る夜ばかりとなりにけり  蕪村

下は同じ白梅でも、少し花の形がし違います。

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紅梅も一本あります。雪の日の紅梅。

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白梅のあと紅梅の深空あり  飯田龍太

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次に、2013年に撮った写真を一枚。

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以前、2008年に書いた古い記事があります。よろしかったらご覧下さい。
「白梅」← の記事。

「紅梅」← の記事。

毎年きっちり咲いてくれるのがありがたいですね。

しらうめの一輪にして雪月花  松井童恋

今回はこれだけです。また宜しく。

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俳人 松井童恋 その8

松井童恋氏の思い出 その8 俳誌『其桃』

書初めの筆にけものの貂はしる  童恋

 童恋氏は慣れない横浜での生活を始め、東京の会社に勤め始めます。
 昭和30年代は激動の時代。中堅の新聞社とはいえ、大変忙しく、毎日あちこちへと取材に出掛け、原稿を書いていました。博報堂などにもよく出入りをしていたそうです。
 物を書くのは大変性に合っていたのか、そのまま長く同じ会社に務め、定年まで働きました。これは後に田舎に帰った後の話ですが、暫くして毎月集落の新聞地家室便り』(じかむろだより)を発行しています。村の歴史や行事など色んな事を書いていました。新聞を作るのが板に付いていたと言うか、余程お好きだったのでしょうね。
 東京横浜時代の俳句ですが、俳句は個人で続けていたようで、どこかの結社に所属することは無かったようです。随分経ってから仲間が出来たのか、季刊誌のような物を作り、そこで俳句を発表したりしていたようです。

 東京・横浜で30年近くが過ぎ、夫婦共に定年を迎えた後、1980年前後に山口県に帰郷しました。

 古里に帰り先ず行なったことは、山口県にある俳句結社に所属すること。山口県には幾つもの俳句結社があります。その中から、俳誌数点取り寄せ、どこに所属しようか検討されたようです。その結果、下関にある俳誌『其桃』(きとう)に入会することを決めました。

 

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 下関の俳誌『其桃』は1932年(昭和7年)に創刊された長い歴史のある俳誌。芭蕉の流れを汲む美濃派の再興に取り組まれた西尾其桃(1868~1931年)が伝統と格式を重んじ、この地で熱心に俳句指導をされていました。
 西尾其桃は兵庫県明石市垂水の出身。子供の頃近所のお寺の三千堂という僧侶に俳諧の手ほどきを受ける。その後、柳庵一瓢、他何人かの俳人に師事。医学生を志し長崎に行く途中、何故か山口県で下車。長門市の旧大津郡油谷町の内藤医師の書生となり奉公。そこでお金を貯め、大阪の府立医学校に進み医者となる。そして、下関で開業します。
其桃氏は下関市に西尾病院を開設され院長を務めながら、時に上京し森山鳳羽氏に俳諧を学び深める。その他、多くの俳人と交流を深め、明治・大正・昭和の俳人として活躍されました。
 昭和6年、旅先の和歌山県白浜で客死。まだまだ63歳の働き盛り。ようやく息子が後を継ぎ、好きなことが出来るようになったと思った頃の少し早過ぎる死でした。其桃氏の没後、その指導を受けていた息子で病院長に就任していた西尾桃支(とうし)氏が父の意思を受け継ぎ、翌年1932年父の名を冠した俳誌『其桃』を父の友人の東桃園(あずまとうえん)と創刊。
 『其桃』はその後、桃支氏の息子、孫にあたる西尾豊氏に受け継がれ、またその後中村石秋(なかむらせきしゅう)氏へ。そして、現在は池田尚文氏へと受け継がれています。
 童恋さんが入会したのは中村石秋時代だと思います。おそらく、きちっとした伝統的な俳句スタイルが自分に最も合っていると思われたのでしょう。1982年其桃合同句集『桃影第五輯』の二十句初投句。翌1983年1月号の雑詠欄に四句が初掲載される。童恋氏は遠く大島郡から下関へと其桃の俳句大会や吟行会に何度も出掛けられ石秋氏と親交を深められました。余程信頼されたのでしょう。暫く後に其桃の同人になられ、添削コーナーを受け持たれるようになりました。

  しらうめの一輪にして雪月花  童恋

 そしてもう一つ大事なことは、帰郷して大島郡にある句会に参加すること。大島郡には、大きな集落には句会があり、それを束ねる大島郡俳句協会がありました。俳句協会の会長をしておられた田中耕蝶氏と意気投合したのか、暫くして副会長になります。新しく他の村にも句会を立ち上げたり、特別養護老人ホームなどで俳句の指導をされるようになりました。俳句協会の会長さんが亡くなられた後、童恋さんが会長の後を継ぎ、島の俳句会の発展に大いに尽力されました。教育委員会などにも働きかけ、町の公民館での俳句講座を開かれたり、学校に指導に行かれ俳句教室を行なわれたりしました。年に二度、春と秋に郡の句会のメンバーが一堂に会し、「周防大島みかんの島俳句大会」を開催。メンバー全員が投句して合同句集『屋代島』を編纂。2000年前後には島内に12~13の句会があり大変賑やかに大会が行なわれていました。東京から俳人を招いたり、山口県の俳人や愛媛県の句会などとも広く交流されていました。
 「山口県俳句大会」の選者もされるようになり、毎年出掛けられていました。山口県の俳句大会は毎年、市や郡の持ち回り。それを、2007年大島郡に招聘され、大島郡で開催し大いに盛り上がる大会になりました。このように、大変精力的に活動されておられました。

 ところで、童恋さんの俳句で、『其桃』に掲載されたものの中から、私のお気に入りの句を一句紹介します。

三猿の手のおきどころ萬愚説  童恋

225px-The_Three_Wise_Monkeys,_Nikkō_Tōshō-gū;_April_2018 三猿 The three wise Monkes   ( See no evil monkey, Hear no evil monkey, Speak no evil monkey)

 いい句ですねえ~。いつの間にか年を重ねると色んな事が起きます。ちょっとしたことで相手のことが気になるので「こうしたらいいのに!」と楽になるようにと簡単にアドバイスしたら、「ガガガーッ!!」と反論され、目を丸くして首を縮める。私が言ったことが正反対に取られてしまい、予期せぬ反論・反撃に合ってしまう。「言わなきゃよかったー!」と思うのだが後の祭り。そんなことがよくある。そんな時に、この句を思い出す。見ても見ぬふり、聞いても聞かぬふり、言いたくても絶対に言わないように。それが、世の中うまくいく秘訣だとぐっと飲み込む。若い時には自由に意見を言っていたのに、年を取ると色んな事が難しくなります。

物云へば唇寒し秋の風  芭蕉

 余計なことを言えば災いを招きますよと・・・・。三猿の句は、この芭蕉の句に通じるところがあると思います。芭風・美濃派の再考を掲げておられた其桃氏の思い。それを童恋氏もよく理解され、賛同されていた。だから、童恋氏が『其桃』を選ばれたのだろうと言うことがよく解ります。
 童恋氏は俳句の話をされる時、よく芭蕉の言葉を口にされていました。「不易流行」・「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」・「古人の跡をもとめず、古人のもとめたる所をもとめよ」。その他、沢山の言葉をおしゃってましたが、その中から一つ。
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通する物は一なり」。この言葉を教えて頂いた後に私の作った句、

  絵師歌人茶人俳人花衣  照れまん

 この句を読んだ童恋氏。「君は面白い句を作るねえ~!とってもいい句だよ。もし有名俳人がが作った句なら名句になるけど、君が作ったのでは・・・・残念だねえ~!!」と言うので、二人で顔を見合わせて笑った(☆∪☆)。
 私が笑いながら「これは、『曲水の宴』を詠んだものなんですよね!」
と言うと、「なるほどねえ~」と頷いておられた。

(つづく) 

俳人 松井童恋 その1 ← よろしかったら、こちらをご覧下さい。

  ーー △ ーー ▼ ーー ◆ ー HAIKU ー ◇ ーー ■ ーー ★ ーー 

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「冬の蝶」2021年1月 越冬ムラサキツバメ発見

3年ぶりに『ムラサキツバメ』が越冬に来てくれました。

昨年12月に庭で飛んでいるのを見ていたので、来ているなとは思って居たのですが、ちょっと体調が悪くて庭には出ず。新型コロナのことがあるので、無理はぜず自重してました。
今の世の中、風邪を引いてもコロナでは無いかとビビります。怖いですよね。

1月になり、やっと裏庭に出てみたところ、越冬しているのを発見。二つのグループがあり、Aグループは7~10頭。Bグループは18~20頭とかなり沢山居ます。
この蝶は三密が大好き!折り重なって眠っています。昼、天気がよくて暖かくなると起き上がり周りを飛んだりしています。

まずは裏庭の葉蘭の写真。この中の中央付近に50センチほど離れて二つのグループがいます。

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まず、多い方のBグループ。
葉蘭の葉の下に居るので見つけにくい。
暗いので写真にはとても撮りづらい。

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暗くて見にくいので、翌日鏡を出して太陽を反射させて明るくして撮ってみた。
左手に鏡、右手にカメラ。なかなかうまく撮れない。
ざっと数えてみると18~20頭はいます。重なっているので正確には解りません。

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昆虫綱・チョウ目(鱗翅目)・アゲハチョウ上科・シジミチョウ科・ミドリシジミ亜科・ムラサキシジミ族・ムラサキシジミ属・ムラサキツバメ

学名:Narathura bazalus  日本産亜種 N.b.turbata

英名:powdered oakblue

和名:ムラサキツバメ

ムラサキツバメ と ムラサキシジミ はとてもよく似ています。
僅かな違いは羽の後ろに小さな尾状突起があるのがムラサキツバメ、無いのがムラサキシジミ。羽の先がやや丸みのあるのがムラサキツバメ。尖っているのがムラサキシジミ。

東南アジアからヒマラヤ東部・中国南部、日本にかけて生息。南方系の小さい蝶。以前は九州や四国に生息していましたが、今では関東南岸以西に生息域を広げています。
冬には集団で草むらの葉陰や葉裏で越冬するのが特徴。

続いて、Aグループの写真。

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こちらは少し少なく、およそ10頭。
こちらも翌日、鏡を持って行ってみました。鏡で照らされて、みんな起きてしまいました。

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上の写真、羽を開いているのはメス。この蝶は珍しくメスの方が綺麗。
下はオス。集団から出てきて日光浴をしています。サルスベリの木に止まっています。

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初蝶は眠るムラサキツバメかな  照れまん

DSC_2494 このメスはかなりくたびれていますが、かろうじて尾状突起が残っているので、ムラサキツバメと解ります。

今までの写真は  ニコンD90。
これからの写真は ニコンD5100。
まずは、Aグループ。

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次も鏡で照らして撮っています。前日より少し増えています。

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越冬のムラサキツバメ重なりて  照れまん 

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昔撮った写真を一枚

DSC_1401 これは、メス です。
紫が美しい!

もう一度 Bグループ。
曇りなので、画用紙をレフ板代わりにして撮ってみましたが、少しは明るくなりましたがやはり暗いです。

 

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下は日が射した時に鏡で照らしています。

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左手に鏡を持っていると、光の角度が難しいし、カメラの望遠が使えない。いちいち望遠を伸ばしてピントを合わせてみて、それから鏡を持って撮る。一眼は重いので、ピントはぶれぶれになり難しい。そこが面白い!
蝶の方も鏡で照らされるので「なんだなんだ」と起き上がってきます。「何かおかしいぞ!」と思うのでしょうね。なので、すぐに鏡をそらします。

さてさて、俳句では冬の季語に「冬の蝶」があり、傍題に「凍蝶」(いてちょう)・「蝶凍つる」(ちょういつる)・「越年蝶」・「冬蝶」などがあります。

  被害妄想者そこらを散歩冬の蝶  山口青邨

  凍蝶に指ふるるまでちかづきぬ  橋本多佳子

 

昔撮った写真でメスとオスを一枚づつ。
最初はパナソニックのコンデジ。

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「冬の蝶」というと、どことなく死にそうな儚げなかわいそうな趣があります。紋白蝶や黄蝶などを真冬に見かけることがあります。こういう蝶が冬の蝶なのでしょうが、ムラサキツバメはこれらの冬の蝶とは少し意味合いが違うかも知れません。しかし、れっきとした冬の蝶です。ムラサキツバメには冬を生き抜く知恵と強さがあるようです。

  冬の蝶いづこもくらき夜明けにて  飯田龍太

  五千人死亡のニュース蝶凍つる  照れまん

次はカシオのコンデジ。

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  密集密接密着冬の蝶  照れまん

そんなこんなで、2021年最初の記事で、「冬の蝶」、「2021年1月、越冬ムラサキツバメ発見」を載せて見ました。
都会にいると、冬に蝶を見ることは、なかなか無いかも知れません。ここはすごい田舎なので、色んな動物がいるのでありがたいし嬉しいですね。
今回は、我が家の庭に来てくれるとても可愛い蝶を載せて見ました。

以前、沢山ムラサキツバメを載せましたが、その中の一つ、
2014年「越冬ムラサキツバメ」 ← お暇でしたらご覧下さい。

三密の越冬楽し蜆蝶  照れまん

どうしても、コロナ禍から離れられません。
皆様、どうぞコロナにはお気を付け下さい。では・・・・。

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俳人 松井童恋 その7

松井童恋氏の思い出 その7

回天の出口なき海虚貝    童恋

 1945年昭和20年8月15日、終戦を迎え武装解除。その後、無事生きて故郷に帰ることが出来ました。

 軍隊生活が長かったので、もう30歳に手が届こうかという年になっていました。親は急いで結婚させたかったのでしょう。松井家の親戚に吉田家があり、そこには女の子しかいなかったので養子に出されることになりました。吉田家の娘さんは戦前より看護婦をしておられました。そのお嬢さんと結婚。松井姓から吉田姓に代わりました。

  黄心樹や妻との仲はふたいとこ  童恋 
  (おがたまや つまとのなかは ふたいとこ)

オガタマ 黄心樹 オガタマノキ モクレン科の常緑高木

 戦後、田舎は爆発的に人口が増えました。復員してきた兵士や満州・朝鮮に移住していた人達が続々と引き揚げてて来たのです。
 瀬戸内の小さな島ですが昭和20年代、人口が6万人を越えていました。ちなみに、現在は1万5千人です。私が小学校時代、児童が千人を超えている学校が三校あり、私の小学校は少し端の方になりますが、それでも500人の児童が居ました。     

 元々瀬戸内の島々は土地や田畑が狭く仕事場が無いのに加え、人が増えたのでなかなかきちっとした職業には就けません。童恋さんは農協などの臨時職員をしながらの生活。奥様は結婚後も看護婦を続けておられましたので、夫婦共働きをされていました。
 奥様は私の村の開業医のK医院で看護婦をしていました。k医師は軍医上がりのバリバリの外科医。そこに、隣村から歩いて山を越え、毎朝通って来ていました。
 私の村には別に小さな病院がありました。木造平屋建て隔離病棟もある古い病院。戦後はどこの病院も大変な医師不足に悩んでいました。そこで、開業医のk医師に村の病院の院長になってくれないかと要請が来ます。K医師は快く受け入れ村の病院の院長になります。童恋さんの奥様は一緒に婦長として赴任する事になりました。
 村の病院には結核病棟があり、その患者さん達の為に、夫の童恋さんは俳句の指導をされるようになります。

神の留守鳥居はいつも開いてをり  童恋

 昭和20年代後半になると島の中にバス路線が開通し、よその村に通うのも容易になり、童恋さんは各村に俳句会を作リ指導をしようと思っていた矢先、一つの騒動が持ち上がります。

DSC_2186 戦前・戦後開業医をしていた田舎のK医師宅玄関 今も建物は残されています

 私の村にある隔離病棟のある病院は木造平屋建ての戦前の古い建物で、かなり老朽化していました。それで、新しく建て替えようと言うことになります。道路を隔てた向かい側に新しく二階建て木造モルタル造りの病院を新築する計画。向かいの土地は狭く窪のような所で、南側に山があるので日当たりのよくない立地条件がいいとは言えない土地でした。
 その頃、近くの村にも同じような戦前からの木造の結核病棟のある病院が二カ所ありました。つまり近くに三カ所の木造平屋建ての古い病院があり、それぞれが同じように立て替えの時期を迎えていました。
 この件に対しK医師がズバリともの申します。
「こんな小さな病院を幾つも作るより、広い土地のあるところに合併して、大きな鉄筋コンクリートで三階建てか四階建ての建物を建て、診療科目を増やし、手術が出来る総合病院を作った方がいいのでは無いか」と提言します。
 私の村はバス路線の本線ではなく支線になるので、ちょっと不便で土地も狭いのです。それに比べ、近くの村には土地が広く本線に当たるので交通の便がいい村があります。誰が考えてもその方がいいのに決まっています。K医師はごく当然のことを言ったのですが、これが、村人の反感を買うことになりました。
 村から病院が出て行くことに大反対。商店などは「病院があるから人が来るし物が売れる。もし無くなったら、人が来なくなり物が売れないし村が寂れる。これは死活問題!」と猛反発。村中を巻き込み大騒動へとつながっていきました。
 莚旗に「K医師は出て行け」などと書いてデモ行進を行ない、病院の前にピケを張って医師が入れないようにしたりしました。各商店は医師の家族に一切商品を売らないようにし、医師の子供とは遊ばないようにと村八分にしました。
 今では村八分などは使ってはいけない言葉ですが、昭和20年代にはまだ田舎には残っていました。
 この当時、東京でも安保反対など猛烈なデモが行なわれていたので、そういう時代だったと言うことが言えるかも知れません。

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戦前戦後、村の古い病院が使っていた水槽塔。
塔の向こうに病院があり、左奥に結核病棟がありました。
今はこの塔だけが残されています。塔のうしろは後に建った倉庫です。 

 K医師は近くの別の村の病院に転勤させてもらったりしたのですが、どうにも具合が悪いのです。やはり生活がしにくいのです。そこで、医師はとうとう田舎を離れる決心をします。
 ご自身が東京慈恵会医科大学を卒業していたので、友人が沢山関東に居ました。そういうことで友人に相談したところ、横浜に出て来るように勧められます。その友人が色々心配してくれ、土地の取得や医院の建設など尽力してくれたようです。
 K医師は童恋夫妻に「一緒に横浜に行ってくれないか?」と相談し、童恋夫妻は快諾し一緒に行くことになりました。昭和30年代前半にK医師家族と童恋夫妻は横浜に移住しました。田舎から数名の看護婦さんも付いていったようです。鉄筋四階建てで数名の入院が出来る○○外科医院という小さな医院。そこで、童恋さんの奥様は婦長になりました。
 童恋さんは東京の中堅の新聞社に就職する事が出来たようです。大手の新聞社では無く、労働新聞などを作る会社だったそうです。そこで、新生活が始まりました。

 余談ですが、私が5~6歳の頃、K医師家族が引っ越して村を出て行ったかすかな記憶があります。

蝉の穴たつた一度の出口なる  童恋

(つづく)

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俳人 松井童恋 その6

俳誌「其桃」 平成二十三年五月八日発行 通巻第七九七号

松井童恋氏の思い出 その6

「軍隊手帳」

 俳号というのは実に不思議なもの。俳号で呼び合えば、たちどころに句友になり俳句仲間になります。身分の上下も職業の貴賤もなくなり、みんなお仲間・句友と言うことになります。これは、軍隊の中の句会でも巷の句会でも同じこと。どのような職業であっても地位も名誉も関係ありません。皆平等です。俳句を通して通じ合える連帯感のような親しみや仲間意識・戦友のような意識が芽生えます。
 ところで、正岡子規は沢山の俳号を持っています。11歳の頃自分で作った漢詩【聞子規】(ほととぎすをきく)の中に『啼血不堪聞』(血に啼いて聞くに堪えず)と書いています。その後、結核になり自分が血を吐くようになったことから、自分の俳号を子規としています。「鳴いて血を吐くホトトギス」ホトトギスは口を開けると中が赤く見えることからこういわれる。これを自分に重ねたのですね。ホトトギスには、不如帰・時鳥・杜鵑の他いくつかの書き方がありますが子規はこのホトトギス・子規の漢字が一番いいと思ったのでしょう。それで、音読みにして、「子規」としました。自分が作った俳号の中から、友人の夏目金之助君に「これを使ったら!」と『漱石』という俳号・雅号をあげています。「この俳号はいいね。使わせて貰うよ!!」と「夏目漱石」が誕生しました。金から石になったのがよかったんでしょうか??
 高浜虚子は本名が清(きよし)なのでキヨシから「虚子」にしています。
 私は俳句を作った時は全て本名で書いています。以前、童恋さんに俳号にしようかと相談したところ、
「君は本名が俳号みたいだから、それでいいんじゃない!」と言われ、そのまま本名に・・・。ちなみに、川柳を作る時には柳名を付けていて、[常痔照れまん]としています。ブログもその柳名をハンドルネームにして『照れまん君の俳句歳時記』としています。ドイツの作曲家に、Georg・Philipp・Telemannと言う人がいて、その方のGeorg(ゲオルグ)を英語読みにジョージと読ませ、それとTelemannはそのまま。昔大阪にいた頃所属していたバロック合奏団が[テレマンアンサンブル]でした。それと、私の実家が○○寺というので、そこからもじって、そして常に痔持ちなので、それも含んでいます。ブログの中では俳号を「照れまん」とし、本名は使っていません。
 皆様も是非俳号を付けてみて下さい。面白俳号や自分の考えを俳号にしたもの、あだ名や駄洒落などそれぞれがそれぞれの俳号を付けるのも、なかなか面白いものです。俳号で呼び合うのは楽しいですよ。

 話が随分逸れてしまいましたが元に戻しますと、童恋さんの部隊は中国の中をあちこち転戦していました。戦争が長引くと仕事は増える一方。大砲の裂けたたもの。銃弾が詰まって撃てなくなった小銃。曲がった刀、車両の故障などなど。どうにもならないものも増え、廃棄する兵器も山のようにあり、あっちからこっちへと移動し、修理に追われていました。

  立哨す秋風にきく便りかな  童恋

  虫の声川瀬にありぬ水音と  童恋

  山鳩の群に風湧く今朝の秋  童恋 (昭和14年9月作)

軍隊手帳

 昭和13年(1938年)から四年間、外地「中国」勤務を行なったので一応満期という事になり、無事に日本に帰る事が出来ました。昭和17年、帰国後は除隊とはならず、予備役になります。一旦、故郷に帰りますが、すぐにまた再招集で本土防衛の任にあたります。終戦まで合計七年間軍隊生活をされました。
 童恋さんの戦時中の俳句が多く残されているのが不思議な気がしますが、それはしょっちゅう自分の家に手紙を書き俳句を添えていたこと。そして、所属していた俳句結社「わだつみ」に毎月五句投句していたこと。それが俳誌には戦地よりの『戦地特別詠』として掲載されていたこと。このことは戦地にいたので全く知らず、戦後暫く経ってから知ることになります。
 それともう一つ、とても大きい理由は「軍隊手帳」にびっしりと俳句を書いていたこと。四年の外地勤務を終えて日本に帰ってきた時、まだ昭和17年だったため「勝った勝った」と大喜びをしている最中。帰国の検閲も左程厳しくはなく、身体検査も厳重なものではなかったので、ポケットの中に軍隊手帳を忍ばせ、没収されることなく帰宅することが出来ました。それで、軍隊手帳が残っていたため、多くの俳句がそこに書かれていて残りました。
 本来没収されるべき手帳が手元に残ったのでよかったですね。私は軍隊手帳の表紙のコピーを見せて頂いたことがあります。「これくらいの大きさよ!」と・・・。今の手帳よりちょっと大き目と言う感じでした。その軍隊手帳は今は田舎の小さな図書館に寄贈されたのではないかと思います。

 ここから話はちょっと飛ぶのですが、お亡くなりになる3年前、平成19年(2007年)、俳句仲間で山口県徳山市(現周南市)大津島の人間魚雷回天の基地を訪れ、吟行会を行なっています。日中戦争から太平洋戦争まで足かけ八年間兵役に就いていた童恋さん。どんな思いだったでしょう。胸にこみ上げてくるものがおありだったのではないでしょうか?おそらく鎮魂の意味を込められ、二度とこのようなことがあってはならないという思いで、句を作られたのではないかと思います。それらの句が『回天残照』の連作として残されていますので、その中から六句だけ選んで載せて見ます。

回天基地 山口県大津島 回天訓練基地跡

        『回天残照』
    花ちるや海の藻屑はよりふかく  童恋
    憂国の花もて海に沈みけり    〃
    大津島桜散りしく回天碑     〃
    亀鳴くや黒髪島の石の下     〃
    英霊の石百二十八春の露     童恋  (平成19年3月)

 読んでいて胸に詰まるものがあります。

絶筆に国あり雁の帰る頃  童恋

 武漢の句会で詠まれた句が「珞珈山のふもとを雁の渡りけり  童恋」でした。この時はまだ自分達がどこに行くか解らないという思いを雁に託されたのでしょう。「雁」は秋の季語。「帰雁」は春の季語。回天基地では「もう帰ってこない、雁が帰っていく頃なのに、・・・・!!」と、詠まれています。
 心に沁みる素晴らしい句です。

(つづく)

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俳人 松井童恋 その5

俳誌『其桃』 平成二十三年二月八日発行 通巻七九四号

松井童恋氏の思い出 その5

「軍医」

 あっという間に、句会は終わりに近づき、少佐が挨拶を始めた。
「今回の句会はとても有意義な素晴らしい句会になりました。大変勉強になりましたし、こんな楽しい句会は初めてです。実にいい句会になりました・・・。童恋君、また次の句会にも来てくれないかな?」
「はい!是非とも来たいです」
「童恋君、もし何か困ったことがあったら、ここにいる誰でもいい、相談してくれたまえ。力になるから・・・。」
と言うと、皆も頷いていた。
「はい、有り難う御座います」というと、句会は終わった。
 帰りも将校用の黒塗りの車で送ってくれた。

 軍隊というのは大変厳しい縦社会。階級が全てで、階級で呼び合う上意下達の社会。下の者が上の者に意見するなど考えられません。しかし、この句会の中は全く別世界。階級では呼ばず、俳号で呼び合う自由で平等な世界。大佐も一等兵もない、自由闊達に意見を述べ合う場。自由に発言するが、納得出来る意見は聞き入れ反省もする。辛辣な発言をしても誰も傷つかないし怒ったりもしない。軍隊の中ではこのようなことはあり得ません。

 俳句の前にはなんびとたりとも自由で平等なのです。そこに存在するのは、俳句に対して真摯に向き合ってきたかどうか。そして、経験の有無。それを、皆が理解しているからこそ、階級をなくした俳号で呼び合う自由で平等の世界が広がっていたのです。
 俳句に出会える事の幸せ。俳句の連衆に会える幸せ。一期一会の幸せを皆が感じていた。まさか、戦争の最前線の軍隊の中で、このような句会が開かれているなど、誰も知る由はありません。まさか、句会に出会えるなんて・・・。思いもしなかっただけに、大変幸せなひとときであった。

銃剣に月の出てゐる歩哨かな  童恋

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  認識票肌に冷たき今朝の冬   童恋

 童恋さんの部隊は年を明けてまもなく、武漢を離れることになり、二度と武漢の句会に参加することはなかった。 俳号で呼び合っていた為、あの句会のメンバーが誰だったのか、本名は知らぬまま・・・。

  夕とんぼ作戦近く色めきぬ  童恋 (昭和十四年九月作)

 その後二年ほど経ったある日、中国の別の地に駐屯していた。そこで、健康診断を受けることになり全員が医師の診察を受けることになった。
 自分の順番が来て診察を受けた。診察が終わると、軍医殿が自分の顔をまじまじと見て尋ねた。
「君は、俳句をやったことはないかね?」
「はい、あります」
「武漢の句会に出たことはなかったかね?」
「はい、あります」
「やっぱりそうだ。君の俳号は何とかと言ったよね~。えーと何だっけ・・・、え~~と・・・。」
「はい、童恋であります。」
「そうだ、童恋君だ!やっぱり童恋君だ。いやー、君~、元気だったか~。よかったよかった。」
と言い、肩をポンポンと叩いて喜んでくれた。
「私も今はこちらに来ていてねえ~」
「軍医殿はあの時、進行役をされていた少佐殿でしたか。」
「そうだよ。武漢の句会は、陸軍軍医部の主催したものでね。俳句の雄志が集まってのものだったんだよ」
「そうでありましたか。まったく失礼致しました。」
 うしろには健康診断の兵士が待っているため長話も出来ず。
「またいつか、会いたいね!!何か困ったことがあったら私を訪ねて来なさい!」と言われ、「はい」と答えたまま、別れてしまった。
 偶然の再会に、お互い大変な喜びだった。
 童恋さんの部隊は修理や運搬が主な仕事なので、間もなくその地も去り別の地に転進。その為、軍医殿には三度目にお会いすることはなかった。

便り書く電灯くらき焚火かな  童恋

(つづく)

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俳人松井童恋 その4

俳誌『其桃』 平成二十二年十二月八日発行 通巻第七九二号

松井童恋氏の思い出 その4

「花鳥諷詠」

 ここでちょっと軍人の話をしますが、上級士官になるような人は、士官学校や陸軍大学校、海軍兵学校を卒業した文武両道を極めた人達。ものすごく頭のいい優秀なエリート集団。もし、平和な時代であったらなら、工学部に行って研究者や博士になったり、法学部に行って検事や弁護士、経済学部に行って経営者、教育学部に行けばいい先生になったであろうし、その他スポーツや芸術など、どんな分野に行っても秀でた人になったであろう人達。そんな人達が、世が世であるため軍人を志し、お国の為になりたい、国を救いたいと思って軍人を志したのです。
 兵学校ではきちんと勉強し色んな科目もあり一般教養も勉強しています。英語は敵性語として禁止されていましたが、江田島兵学校では、ちゃんと英語の授業もありました。国語では古文や漢文も勉強し、和歌などもしっかり勉強しています。
 武士の時代もそうですが、軍人ならば死ぬ間際にさらりと辞世の句を詠みたい、と言うのは誰の心にもありました。そういう意味では、武漢の司令部には文学を志す人がをり、その中に俳句をたしなむ人がいて、そういう人達が集まって句会を開いていたのです。

 Hankou_1930(1938年金子常光により描かれた武漢三鎮の図 右下が武昌、左の中州が漢陽、中・上が漢口。この三鎮が統合して武漢になった)

 職業軍人としては勉強をしたいという向学心はあっても、なかなか巷の句会には行けません。外の空気に触れることはなく、本物の句会に行くことは出来ないのです。
 そんな所に巷の句会で叩き上げの俳句結社に所属していた一等兵が現れたのですから、これほど嬉しいことはありません。皆、自分の句がどう評価されるのか童恋君に聞きたいのです。
 自分の句はこういう気持ちで書いたのですがどうだろう?とか、季語で悩んだんだけどこれどうだろう?とか、童恋君に意見を求めます。
 それに対し、童恋君はズバズバと批評をします。
 句の欠点をズバリと指摘された上官は「ばれたか~!!」などと言うと、一同大笑い。
「これは散文です」とか、「只の説明になっています」とか、「これは、季語が無理矢理入れられているので、季語が動きます」とか「これは月並みです。平凡です」とか言われると、作者が「参ったなあ~、お見通しだねえ」と言うと、またまた大爆笑。
 添削されたりすると、「本当にそうだね。よくなったよ!」と感激したり納得したり、和やかな楽しいムードで進みました。
 俳句は妙に考えるよりも、名詞と助詞があれば出来ること。韻文であること。季語の働きや季語の解説。切れ字や切れについて。一物仕立てや取り合わせ・二句一章など。それから、推して敲く、推敲すること、などなど・・・。自分の考えや行動を書くのではなく、ものを書くこと。それから、『客観写生』『花鳥諷詠』などを、解りやすく名句を例に上げて解説。
 「この句は共鳴句です。この部分がとてもいい!」などと褒めたりすると、褒められた方は妙に照れたり。それを廻りが冷やかしたりして、笑いの絶えない楽しい句会になりました。

漢口の零下の灯りまばたきぬ  童恋

(つづく)

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俳人 松井童恋 その3

俳誌 「其桃」 平成二十二年十二月八日発行 通巻第七九二号

松井童恋氏の思い出 その3

「童の恋」

 黒板に句が張り出されると「う~ん!」という何とも言えぬ感心したようなうめき声が漏れた。
なかざんのふもとをかりのわたりけり・・・・。いい句ですねえ~。決して高い山ではないが武漢の中心にある名山。公園にもなっていて、その麓にある武漢大学。そこを雁が渡っている。いやあ、素晴らしい!武漢に来なければ絶対に詠めない句。実に素晴らしい俳句らしい俳句です。これはいい句だと思いますが、この句を作られたのはどなたでしょう?」と少佐。
「はい、自分であります」と末席の一等兵が手を上げた。
「おおお~!」とか「ほお~!」とか、皆が驚いたような感心したような声.。
「君は俳号をもっていますか」
「はい、童恋 といいます」
「ドウレン?どんな字を書くのですか?」
「童心の童に恋愛の恋と書きます。わらべのこいと書いて童恋です」
「ほお~~、童(わらべ)の恋(こい)で童恋ですか。いやあ~、いい俳号ですね~。芭蕉は『俳諧は三尺の童にさせよ』と言いましたが、童心を持って一生涯俳句に恋をする・・・、実にいい俳号です。」と言うと、皆からも笑顔が漏れた。
 少佐は俳句の下に白墨で「童恋」と書いた。皆も句集の下の空欄に俳号を書いた。

珞珈山のふもとを雁の渡りけり  童恋

0e486750-cb3b-40d4-aec6-b30e1e14a8a7武漢大学 後が珞珈山だろうか?

 二席と三席が張り出されたが、三席も童恋さんの俳句が選ばれた。
(童恋さんは三席に選ばれた句は忘れてしまって覚えていないとおっしゃってました)

 その後合評へ。
 1番の句から順番に詠み上げられると、それぞれが手を上げ俳号を言い、皆が句集の下の空欄に俳号を書き入れていった。自由に意見を述べ合い、思い思いの発言をしていた。童恋君も歯に衣着せず自分の意見をズバズバと述べた。
すると、少佐が尋ねた。
「童恋君、君はどこの出身かね?」
「はい、山口県であります。」
「ほ~う、長州かね!!じゃあ、どこの部隊にいるの?」
「はい、熊本第六連隊の臨時招集の兵器勤務隊に所属しております。」
「え~、熊本?何故熊本なの?」
「はい、おそらく、私が小倉造兵廠砲具製造所に勤務していたからだと思います。」
「成る程ねえ。それで、今の部隊はどんな部隊なの?」
「はい、主に兵器の修理、車両等の修理、敵兵器の押収品の性能試験と製図作成、私は主に製図作成と溶接を担当しております。」
「ほおう、君は技術端なんだね。・・・それで、俳句はどこで勉強したの?」
「はい、北九州の戸畑であります。」
「先生は誰かね?」
「安武斗柄であります。」
「その方は、師系は誰かね?」
「はい、高浜虚子先生です。その直弟子に当たります。」
 皆から「ほ~ぅ」とか「おーっ!」とか感嘆ともとれる声が漏れた。
「君は虚子先生にお会いしたことがあるのかね?」
「いえ、残念ながら御座いません。師匠は毎年一度か二度は虚子先生の元を訪れ、指導を受けておられましたが、私は御一緒することは出来なかったものですから・・・。それから、俳人の嶋田青峰とは兄弟弟子になり、よく手紙のやりとりをし、楽しそうに読んでおられました。自分はその安武斗柄の主宰する『わだつみ』に所属致しておりました」
と言うと、みんな納得するように「うんうん」とうなずいていた。

 高浜虚子と言えば俳句を志す者なら誰もが知っている大宗匠。一度は指導を受けてみたい憧れの俳人であり、雲の上の人。その孫弟子とはいえ直接指導を受けていた俳人の弟子が目の前に現れたのですから皆の驚きが解ります。巷の句会には行きたいと思っても行けない軍人。そこに、俳句結社に所属していた一等兵が現れたのですから、これはまたとないチャンス。自分達の句がどう評価されるか興味津々。

ふくろうや眠る兵舎に谺して  童恋

(つづく)

松井童恋氏の思い出 その1 「一等兵」

松井童恋氏の思い出 その2 「武漢での句会」

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俳人 松井童恋 その2

俳誌 「其桃」平成二十二年十月八日 発行 通巻第七九〇号

松井童恋氏の思い出 その2

「武漢での句会」

 昭和13年12月26日、句会当日。将校用の黒塗りの車がやって来た。二等兵や一等兵が将校用の黒塗りの車に乗るなど、とても考えられない事。同僚の兵士が何事があるのだろうと訝かしそうに見ていた。運転していた准尉殿に促されて、ちょこんと後部座席に座った。
 句会は司令部のある武漢大学の中央の校舎。武漢大学はとても広い敷地で、その中の中心に西洋と東洋を混ぜたようなお城のような建物があり、その前で下ろされた。そこの、眺望のいい校舎の二階が会場だった。

1200px-Wuhan_University_Sakura_Castle武漢大学 

「失礼します」とお辞儀をして入ると、ギロリと皆が自分の方を見た。そこには見たこともないような高級将校がずらりと並んでいた。一番上の位が大佐。そして中佐、少佐、尉官。一番下の位でも軍曹。左官などは口を聞くこともないような雲の上の高級将校。9人程がすでに着席していた。一等兵は自分一人。童顔で小柄な少年兵のような体格なので、ちょっと気後れしそうになったが、進行役らしき少佐殿が「そこの空いてる席にお掛けんなさい」と言ってくれた。
 軍隊に入って上官より「お掛けんなさい」などと丁寧な言葉で言われたことはなかったので驚きもしたが嬉しかった。
 進行役の少佐、
「ただ今から句会を始めたいと思います。今回は席題は設けません。自由題、当期雑詠と致します。一人五句まで。二句でも三句でも出来るだけで構いません。出来た句からそこの箱の中に入れて下さい。すぐに清書しますので、出来るだけ綺麗な字で楷書でお願いします。適当なところで時間を区切りますので宜しく・・・・。」と言うと句会が始まった。
 皆が作句作業に入った。とても静かな時間が流れていった。時折、遠くで砲声のような音は聞こえていたが、もし皆が軍服を着ていなかったら、ここは日本ではないかと思うほど静かで平和な刻が過ぎていった。
「投句はお済みになりましたか?このあたりで投句締め切りと致します。今、清書しておりますので暫くお待ち下さい。」と少佐。
 やがて、ガリ版刷りの句集が配られた。全部で44句ほどが並んでいた。
「ここから選句に入ります。一人三句選。間違ってもご自分の句は選ばないように。一句一句を丁寧に短冊に書いて、そこの箱に入れて下さい。すぐに書記が集計します」
 書記の人がいて、清書したり選句の集計をしたりしてくれていた。集計が終わると互選の一席から発表。

短冊を少し大きくしたような紙に俳句が清書され、それが黒板に張り出された。

一席
  珞珈山のふもとを雁のわたりけり

(つづく)

松井童恋氏の思い出 その1

追記 武漢会戦は昭和13年(1938年)6月から11月初旬にかけて行なわれました。蒋介石が10月17日漢口から撤退。10月26日 日本軍占領、日本の勝利。11月11日に作戦終了。武漢大学は日本軍に接収され、司令部が置かれました。童恋氏は勝利してまもなく武漢に入ったようです。

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俳人 松井童恋 その1

 山口県大島郡に一人の俳人がおられました。松井童恋、本名 吉田繁行。
 熱心に俳句を指導しておられ、1980年代には島の中に14も15も句会があり、とても盛んに俳句が行なわれていました。年に二度、春・秋に合同句会が行なわれ、一堂に会して俳句大会が開かれていました。それらを主催しておられた俳人ですが2010年3月27日逝去されました。享年93歳。そこで、指導を受けた弟子達が追悼文を書きました。それらは、山口県下関市にある俳誌「其桃」に掲載されました。私は句会には一回も行ったことはなく、東京の俳句結社に所属しておりましたので直接の弟子ではないのですが、病院に入院中童恋氏の奥様が脳梗塞で入院され、付き添いに付いておられたので知り合いになり、色々お話を聞かせて頂くようになりました。その後、投句用紙を持ってきて下さったり、色々かわいがって下さいましたので、童恋氏より聞いた話を文章に書かせてもらいました。そういうことで、その時の文章をこちらに転載させて頂きます。

俳誌「其桃」 平成二十二年十月八日、通巻第790号

松井童恋氏の思い出 その1 

「二等兵」

 昭和13年、この年22歳。北九州の小倉造兵廠砲具製造所に勤務していた。

 9月1日、山口県大島郡の田舎から、突然父がやって来た。造兵廠の玄関に出ると、「元気か!」と言っただけで挨拶もせず、おもむろに赤紙を差し出した。召集令状である。かすかに雨が降っていて、赤紙を濡らした。

19197828_1548365275236904_383791707_o 写真  小倉造兵廠入り口

 以前、徴兵検査を受けていたが第二乙種合格というふがいないものだった。それでも、一応兵役志願の手続きは行なっていた。乙種合格なのでしばらくは来ないだろうと思っていたのに意外に早く来たので驚いた。
 一週間後に熊本第六連隊に入隊するように書かれていた。自分は山口県人だし、仕事は福岡県なので何故熊本の連隊なのか不思議に思った。
 僅かな日時しかなく、お世話になった人や知人に挨拶をし、実家に荷作りを終えて発送するのが精一杯。父が色々手伝ってくれ、熊本まで送ってくれた。

秋の月車窓に父と風を入れ  童恋

 

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 9月8日熊本連隊入隊。自分の部隊は中国における長期戦に備えての特科隊。兵器勤務隊という臨時招集の部隊だった。
 僅か一週間の基礎訓練を受けただけで、九州の長崎へ。そこから船に乗り上海に上陸。そして、9月23日、南京へ進駐。
 兵器勤務隊の任務は、兵器・車両の修理、敵の押収兵器の性能試験、製図の作成、弾薬運搬などが主な仕事。いわゆる後方支援。直接戦闘には加わる事はなさそうだったが、戦争なのでいつ何がどうなるか解らない。それで、自分は俳句だけは残そうと自分の所属していた戸畑の俳句結社に毎月五句の投句は欠かさないようにし、実家にも手紙を書き、俳句を添えていた。
 その後、中国の内陸部の武漢(武昌)に入った。その時二等兵から一等兵に昇進した。武漢大学の広いキャンパスの中の一棟を間借りし駐屯した。

 暫く経った昭和13年12月、武漢の司令部より、突然自分の部隊に問い合わせがあった。
「司令部で句会を開くので、そちらに誰か俳句をやるものはいないか?」というもの。
上官が「一等兵に一人います!」と答えると、「よし解った、26日に句会を開くので迎えの車をやるのでこちらによこせ」ということだった。上官の口ぶりから、相当上の位の人だというのが解った。
 上官はいつも手紙を検閲していたので自分が俳句をしていることを知っていた。

草紅葉武漢大学東湖畔   童恋

(つづく)

追記 
童恋氏は尋常高等小学校を卒業後、北九州の戸畑に奉公に出される。そこで、たまたま本屋に寄って買い求めたのが地元戸畑の俳誌「わだつみ」。そこに投句するようになり、休日には句会に参加していた。そういう縁で俳人で主宰の安武斗柄氏に出会い、後に彼の家に書生として住み込み勉学に励む。それで、小倉の造兵廠に合格入敞することが出来た。このことから、おそらく俳句は15~16歳の頃に始められたようです。
安武斗柄は高浜虚子の弟子で嶋田青峰と兄弟弟子になり、彼とは非常に親しかったようです。しょっちゅう手紙のやりとりをしていたとか。年に一度か二度、虚子先生の元を訪れ俳句の指導を受けていたようです。安武氏は早稲田大学出身なのではないかと思うのですが・・・??(違っていたら御免なさい!!)
私は話を聞くのに、ノートをとっていたわけではないのでうろ覚えの部分があります。間違いがあるかも知れません。そこの所はご勘弁願います。

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