「行火・アンカ」

 2021年1月。電気アンカの調子がよくなくて、時々冷たくなってしまう。見てみるのだけど、どうも本体横に付いているコントローラーのダイヤルの接触が悪くなっているらしい。長年使ってきたアンカなので仕方が無い。

DSC_3148 父と私の2代が30年以上使った日立の行火

 そこで、新しいものを買うことにした。
 今まで「YAHOO ショッピング!」を殆どしたことは無かったが、やり方が解ってきたのでしてみることに・・・。
 サイトを開くと沢山の行火が並んでいる。同じ商品なのに値段が違う物が何箇所かに。・・・なんで?と思いながら一通り見てみた。千円台から一万円を超える物まで沢山並んでいる。その中で、自分の一番気に入ったものが Panasonic のソフトアンカ。値段は7000円台から12000円台まである。同じ商品なのにどうして?と思うが安いものも同じならこちらを買ってみようかと7600円のものにした。
 無事手続きが終り、5日ほどした2021年2月2日商品が届いた。送料・手数料込みで ¥8,602、-。
 使ってみたがなかなかいい。これは正解だなと思った。今までのものは本体にスイッチ・ダイヤルが付いていたが、今度のは手元にダイヤルのメモリ・コントローラーが付いているのでこれが非常にいい。スイッチが入っているかどうか?強弱はどのくらいになっているかが一目でわかるのでGood。

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 説明書には「中国製」と書かれている。今時の商品は殆ど中国で作られているのだなとちょっと疑問に思うが、まあ仕方が無いのだろうと思う。
 それから2ヶ月ほどして、もう一度「YAHOOショッピング!」のアンカをのぞいてみたら、同じ商品が¥22,600,-になっていた。
「うわ~、高くなっている~!!早く買って良かった!」と思った次第。

・・行火 ◆あんか ●アンカ ◇ANNKA ・・

[国語辞典] 
行火 あんか :炭火などを入れて、手足を温める器具。電気行火。

 行 と書いて「アン」と読むのは何故??と疑問に思ったのでもう少し調べてみる。

【字通】 
行 コウ(カウ)、ギョウ(ギャウ)、アン。ゆく、おこなう、みち。
行 、十字路の形。交叉する道を言う。「人の歩趨なり」、1⃣みち、2⃣ゆく・やる・ゆくゆく、3⃣おこなう・なす・もちいる、4⃣たび・みちのり、5⃣めぐる・ならぶ・れつ、6⃣まさに・まず・はじめる、7⃣軍行の列・みせのならび・ところ・あたり、8⃣歌の一章を歌う・歌行

[妙義抄] 行 ユク、イデマシ、ヤル、アリク、アルク、サル、ニグ、イネ、サケツ、ミユキ、ミチ、フム、メグル、オコナウ、ワザ その他幾つかあり。

妙義抄 『類聚妙義抄』(るいじゅみょうぎしょう)平安時代11世紀末から12世紀にかけて日本で成立した、漢字を引く為の辞書。
 これには、行 と書いてアンと読む読み方は書かれていません。それで、調べると 行アン は唐音と書いてある。室町時代には宋音と呼ばれる。それで、唐・宋音とも呼ぶ。
唐・宋音とは、遣唐使の中止で途絶えていた日中間の交流が、平安末・鎌倉時代初期から再開し、室町・江戸時代に盛んになり禅宗の留学僧や民間貿易の商人達によってもたらされた。
唐宋音は鎌倉時代から江戸時代までに音読みにおいて中国から入ってきた字音。
行・アン は、行火(あんか)・行灯(あんどん)・行脚(あんぎゃ)・行宮(あんぐう)などに使われる。
その他に入ってきた言葉では「団栗」(どんぐり)や「饅頭」(まんじゅう)・湯婆(たんぽ)・「餡」(あん)・「椅子」(いす)「外郎」(ういろう)・「胡散」(うさん)・「銀杏」(ぎんなん)など、その他多数。
唐音 は体系的なものでは無く、断片的に特定の語として入ってきた。
 唐音は唐の時代を指すのでは無く、広く中国から入って来たという意味のようです。
「行」は最も古く日本に入ってきた呉音では「ギョウ」。その後、漢音読みの「コウ」が加わり、後の鎌倉から江戸時代にかけて唐音の「アン」という発音が加わったようです。行 には「旅」とか「運ぶ」「もちいる」という意味があるので行火・行灯などと使われるようです。

 さて、俳句ですが、俳句では「行火・あんか」は冬の季語傍題に「ねこ」・「ねこ火鉢」・「電気行火」が書かれています。大歳時記の説明はとても短く、例句も僅かしか載っていません。それで、少しだけ俳句を載せて見ます。

  電気行火座右に竹山嵐きく   臼田亞浪

臼田亞浪(うすだあろう)、本名:臼田卯一郎。明治12年~昭和26年(1879年~1951年)長野県北佐久郡小諸町に生まれる。1904年和仏法律学校(現法政大学)卒業。在学中に短歌を与謝野鉄幹俳句を高浜虚子に学ぶ。大正4年俳誌『石楠』(しゃくなげ)創刊。松尾芭蕉・上島鬼貫を敬愛し、自然詠を志す。昭和20年3月10日、東京大空襲により印刷所罹災。西多摩に疎開。昭和21年印刷所を長野に移し『石楠』復刊。
臼田亜浪の俳句にこんなのがあります。
  夜着の中足がぬくもるまでの我れ  臼田亞浪
この句の季語は「夜着」です。冬の季語。夜、寝るときに使う袖の付いた長い布団。褞袍(どてら)を長くしたような物。傍題に「掻巻」(かいまき)・「小夜着」(こよぎ)があります。夜着は私が子供の頃に寝るときに使ってました。布団の上から掛けてもいいし、布団の中にしても密着するのでとても温かいので具合がいい。袖が付いているので炬燵に入るときなんかに肩に掛けて袖を通したり・・・。昼間に着たりして遊んでいましたが、暖かいし長いのでとても面白かった記憶があります。最近見なくなりました。
前の句とこの句は全く別の句なんだけど、この句のあとに、前の句を続けて読むと面白い。夜着の句の時は行火の中に足を入れなかったのかなと思ったり、高橋竹山の津軽三味線は聴かなかったのかなと思ったりすると楽しい。
 私の好きな俳句は
  にこにこと笑うて暑きこの世去る  臼田亞浪
本当に「俳」・「諧」に生きた人だなあとつくづく思います。素晴らしい俳人。

  古行火抱き足らぬ火の乏しさに   富田木歩

富田木歩(とみたもっぽ)、明治30年~大正12年(1897~1923年)。生まれる前は、東京向島の大百姓の旧家だったが、明治22年大火にあい殆どの財産を失う。そのあと、明治30年に木歩が生まれる。生まれた翌年、高熱を発し両足が麻痺、歩行不能になる。身体障害者になったため学校には行けず。それで、姉が少しづつ「いろはがるた」や「軍人めんこ」などから読み書きを教える。木歩は大変利発な子でそのうちに少年雑誌などが読めるようになる。明治43年、東京は大水害に遭い、父親が経営していた鰻屋が水没し、ますます貧困になる。木歩は友禅型彫りの仕事に行き始めるがそこでひどいイジメに遭い仕事を辞める。その頃から少しづつ俳句を作り始める。大正4年17歳の折、臼田亜浪に師事、『石楠』に投句開始。その頃、初めて俳句の弟子が出来る。その後、めきめきと頭角を現し、俳人として名が知れるようになる。晩年結核になるが、俳句仲間や弟子が寄付やカンパをしてくれて治療費や入院費用を出してくれる。木歩にとっては俳句が唯一の楽しみであり多くの人との繋がりで結ばれてていたようです。
自分で木の足を作った事があり、ここから俳号を「木歩」としたらしい。ただ、その木の足は使い物にはならなかったようです。そして大正12年、関東大震災という未曾有の大災害に遭遇し、火災に巻き込まれ焼死。まだ僅か26歳という若さでした。歩行不能・貧困・無学歴・肺結核の四重苦。それに加え大変なイジメにもあい、父が死に母も亡くなり、弟はろうあ者であり、身内が結核になりその看病をしていたことから結核に感染。五重苦・六重苦です。不幸を背負っていたような人。世の中は実に理不尽だと思うのですが、それでも、俳句が唯一の救いであり希望だったのが一縷の光です。もう少し木歩の句を読んでみたいですね。それで、一句だけ載せてみます。

  夢に見れば死もなつかしや冬木風  富田木歩

季語は「冬木風」ふゆきかぜ。身内が次々に亡くなったり、最初の弟子が隅田川で遊泳中に溺死したりしています。随分年を取ってから詠んだ句のように読めますが、実際は20代でこのような句を詠んでいます。すごい俳人です。

  行火守る木乃伊の婆々に冴え返る  河野静雲

  妻へも這ふ電気行火の赤き紐    細井埒人

  夫帰らぬ夜より行火を使ひそむ   細井みち

  旅先の真つ赤な電気行火抱く    岡本 眸

  根の国に潮の寄せくる行火かな   古舘曹人

「根の国」とは、日本神話に登場する異界、又は黄泉の国。この句では出雲国・島根県と読むのがいいのではないかと思うのですが、如何でしょう??

  芭蕉忌の行火たまはる瑞巌寺    沢木欽一

芭蕉忌は陰暦十月十二日。冬の季語。瑞巌寺は宮城県宮城郡松島町にある臨済宗のお寺。松尾芭蕉が訪れたのは有名。それにより、現在十一月に芭蕉祭が行なわれています。

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 冬の季語になっている暖房具には色んな物があります。炬燵・湯湯婆・懐炉・ストーブ・暖炉などは今でも使われていますが、今ではあまり見かけなくなった物に、火鉢・炭(すみ)・炭火・炭俵・埋火(うずみび)石炭・練炭などがあります。外国の物ではペチカや温突(オンドル)などがあります。日本人が朝鮮半島や満州に沢山出掛けていたので季語になったのでしょう。
 我が家には今でも木製の長火鉢があり、たまにお客様があるときに使い鉄瓶を掛けています。
 子供の頃、母が風呂焚きをする時に、冬は豆炭を入れて、豆炭行火を入れてくれていたのが懐かしい。

 今の時代はエアコンですが、私の持っている『日本大歳時記』にエアコンは載っていません。夏冬兼用なのでややこしいですね。「暖房」か「冷房」で詠むことになるようです。
 そういえば韓国からの留学生が「日本の冬は寒くて適わない!」と言っていた。それで友達が「エアコンを点ければいいのに?」と言うと、「駄目だよ!余計寒くなるじゃん」と言う。そこで、友達が部屋のエアコンを見に来てくれ、スイッチを入れると暖かくなる。「ほら!暖かくなるでしょう」と言うと、「ホントだ!韓国のエアコンは冷房だけだよ。日本のエアコンは冷房と暖房があるのを知らなかった!!」という話が韓国人サイトにありました。本当でしょうか??

 そういうことで、今回は冬の暖房具「行火」を載せて見ました。

一晩の安心安眠行火かな  照れまん

 私のつまんない俳句を載せて御免なさい。4年前に具合が悪くなり、俳句を止めてしまったので、今は作っていないのです。それで、今回急遽一所懸命考えたのですが無理でした。ろくな句は出来ませんでした。残念!!

  部屋に居て指一本で行火買う  照れまん

切腹(★∪ゞ)!!じゃ、また・・・・。
文章の中に誤字脱字、間違いがあるかも知れません。そこの所はお許し下さい。

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俳人 松井童恋 その10

俳人松井童恋氏の思い出 その10 「奥様の死去」

 1993年、童恋氏の奥様は脳梗塞で倒れられ入院。その介護に童恋氏は付き添いをされていました。四ヶ月ほど入院・介護生活をされ、リハビリなどにも励まれておられましたが、これ以上は良くはならないだろうと言われ、病院に居るのは大変なので自宅に連れて帰ることになりました。自宅に帰られてからはご主人の童恋氏が介助や介護、毎日の炊事や洗濯など家事全般をされていました。子供が居なかったので、全て童恋さんがされていました。

落葉掃く拾得箒持ちしまま  童恋
(おちばはくじっとくほうきもちしまま)

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「寒山拾得図」葛飾北斎の肉筆画。すみだ美術館(墨田区)所蔵。北斎の真筆か?別の絵師が書いたものか?話題に・・・?

 退院した後2ヶ月か3ヶ月に一度は病院に奥様の薬を取りに通って来られました。
 朝9時頃病院のマイクロバスで来られ、12時頃に帰って行くという感じです。薬を貰った後、とても長い待ち時間があるので私の部屋に見舞いに来られ、ベッドのそばでよく話をされていました。実は入院中よりもこの時の方が話はよく出来ました。入院中の時には、周りに色んな人がをり、お茶を飲みながらの世間話が多かったので,あまり俳句のことや個人的な話は出来ませんでした。それで、この時に多く話を聞かせて頂きました。戦争中の話もこの時に色々聞聞かせて頂きました。
 そんな時に、
「あなたは俳句歳時記を読んでらっしゃる?」と聞かれたので、
「いいえ、私は歳時記は持ってないんですよ!」と答えると、
「そう、それじゃあ何とかしてあげましょう。」と言って帰られた。
その後は3~4ヶ月何の音沙汰も無かったので、あれは何だったのだろう?と不思議に思っていた。「まあいいか!」と言う感じで忘れかけていた。そしたら、突然俳句の投句用紙が送られてきた。
『みかんの島俳句大会』がありますので投句して下さい!と書かれていた。
 それでは出しましょうと2句投句した。その後暫く何の音沙汰も無かった。
 3ヶ月くらいした時、突然『周防大島俳句会』の会員の方が尋ねて来られた。
「おめでとう御座います。俳句大会で特選を受賞されました。それから、会長賞も受賞されました。会長賞は『日本大歳時記』が副賞に着いています!!」と賞状や『日本大歳時記』を差し出された。
 突然のことで驚いたが「有り難う御座います」と丁重に頂いた。
 それでやっと、童恋さんの言われたことが納得出来た。こういうことだったのかと遅まきながら理解。それにしても粋だなあと感激(☆∪☆)!!素敵ですよね。まるで江戸っ子みたい。東京で長く仕事をされていたので当然なのかとも思った。童恋さんはその時「周防大島俳句会」の会長に就任されていました。
『日本大歳時記』はその後毎日のように読ませて頂き、今でも大事に使わせて頂いています。
「童恋さん、粋な計らい、有り難う御座いました!!」
  

DSC_3936   DSC_3972

『日本大歳時記』最後のページに年月と俳句が添えられていました。
[ 平成八年(1996年)10月13日
  秋に入る小草の先のかたきかな  童恋
            第21回大島合同句会  会長賞として贈 ]
と書かれていました。
それで、私がその左ページに受賞した俳句を書いています。
  ほうたるを指輪の如く渡しけり  照れまん 45歳
随分若いですね。

 童恋さんは自宅で奥様の看病をしながら句会に頻繁に出掛けられていました。下関や四国に遠出されるときには親戚の人や近所の人、介護士の人が介助されていたようです。童恋さんの住む村は小さな集落ですがとても仲がよくって文教地区のような村。皆がよく助け合い、色々面倒を見て下さっていたようです。それも、童恋さんの人徳の為せる技でしょう。
 退院後、足かけ9年ほど闘病の末、平成14年(2002年)3月21日、奥様は亡くなられました。その日は丁度彼岸の中日でした。
 1945年、終戦のすぐ後に結婚され、途中横浜に出て行かれ、定年を過ぎて帰郷。長い間苦楽を共にされ、57年間添い遂げられました。それだけに、とても悲しかったでしょう。
 何句かの俳句が詠まれていますので一部書き出してみます。

  春愁や鏡に失せし妻なりき   童恋

  妻の亡き鏡台に置く一輪草

  夕顔やこけしの髪に櫛あつる

  雪女今縫ひあげし衣きて

  啓蟄やその終るまでいのちもて  童恋

胸にジーンとくるものがあります。とても素晴らしい心に沁みる俳句ばかりで、涙を誘います。

 童恋さんは、いつも出掛けられる時はこざっぱりとした装いでとてもダンディーでした。初老の紳士然とされていました。いつもは標準語で喋られるのですが、時としてものすごい山口弁と言いますか大島弁で喋る事があり、そのギャップがとても面白く笑わせて下さいました。

 最後にもう一句だけ載せて今回は終わりにします。

凍蝶の仮死そのままに終るらむ  童恋

(つづく)

「俳人 松井童恋 その1」 ← はこちら

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俳人 松井童恋 その9

俳人 松井童恋の思い出 その9  奥様の介護

道をしへ来迎仏と出合ひたり  童恋

 私が童恋氏と初めてお会いしたのは、おそらく1993年頃では無かったろうかと思います。私が入院中、童恋さんの奥様が脳梗塞で倒れられ、救急車で病院に運ばれてきました。かなり重傷で半身不随。言葉も発することが出来なくなっていました。二人部屋の狭い部屋に入院されましたがご主人の童恋さんが付き添いに付いておられ、甲斐甲斐しく世話をしておられました。童恋さんは小柄ですが奥様は当時としてはかなり大柄な人。蚤の夫婦と言えばいいでしょうか。リハビリに連れて行くのも車椅子に乗せるのも大変で、リハビリの先生が来て移動を手伝って居られました。

周防大島町立東和病院周防大島東和病院

 童恋さんは大変こまめで几帳面な人で、毎朝5時頃には起き、顔を洗われた後、先ず散歩に出て2~3㎞歩いていました。その歩く速さがとても早く、毎日少しづつコースを変え、南の方に歩いたり、北や西へと歩いていました。朝6時までには帰ってきて、看護婦さんが来る前に身の回りをきちんと整えていました。
 奥様に朝食を食べさせた後自分の食事をし、後片付けや食器洗い。それから洗濯をして屋上に干しに行く。午後は、隣村へ自分の食事の買い物に出掛けられたりしていました。夜はベッドの下から簡易ベッドを出して寝ていました。日曜日はよく出掛けられていたので、後で思えば、句会の指導に行かれていたのでしょう。
 私の部屋の向かいの部屋だったのですが、全く存じ上げなかったので、廊下で挨拶をするくらいで二ヶ月が過ぎました。
 私の部屋では土・日にアフタヌーンティーと言いますかお茶をしていました。患者は見舞いにお菓子を貰うことが多いので、それらを持ち寄りおやつの時間を楽しんでいました。当時は付き添いさんが沢山居たので、誰かがお茶を淹れたり、紅茶やコーヒーを淹れたりしてくれていました。そんな時、
「向かいのご主人にも声を掛けてみましょうか?」と言うことになり、声を掛けたところ「行きましょう」と部屋に来られて話をするように・・・。初めは世間話などをしていました。
「小まめによく動かれますね?介護は大変でしょう」と言うと、
「長い軍隊生活が染みついちょるけえのんた。動くのが当たり前なんよね」などと言われてました。
 暫くすると誰かが
「あの人は俳句の先生らしいよ」と言うことを聞きつけ、部屋の人は私が俳句をしているのを知っているので、「見てもらったら!」と言うことになった。
「いいですよ。いくらでも見て上げますよ!」と。
 私は「素人ですから・・・恥ずかしいなあ~!」と言いながら何回目かのお茶の時に初めて俳句を見て貰う。
 私の作った俳句を見せると、もうボロカス。大体俳人と言うのは口が悪いですよね。童恋さんは口は悪いのですが喋るととても面白い。みんなで笑いながら聞いていました。
 俳句の話もですが、童恋さんの話はとても面白く、人を引きつける魅力がありました。ある日には、
「これ、電子辞書なんだけど、とっても便利だよ!」と持ってきて使い方を教えて下さり、難しい漢字を出して大きくしたりして「どう?これってすごく見やすいでしょう」などと、新しい物好きな所も。

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 その後「これを差し上げましょう」と俳句手帳を頂いた。とてもしっかりした皮のようなビニールの表紙に厚紙のカバーが付いているきちっとした物。最後のページに俳句が添えられていました。

 

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平成5年(1993年)10月24日

蟹出でてすぐかくれけり磯の秋  童恋  

裏表紙に日付が書かれ、この句が添えられてとぃました。

この俳句手帳に私が最初に書いたのがこの句、
  台風の落としてゆきし栗拾ふ    照れまん (1994年11月15日)
その他にはこんな句が書かれています。
  浮輪の子四畳半しか沖に出ず    照れまん  (1995年7月14日)
一番最後のページの最初の句と最後の句
  繭の中やがてモスラになる子かも  照れまん
  遠花火遺言状の封を切る      照れまん  (1997年5月9日)

 暫くして、「あなたはどこか句会に入ってらっしゃるの?」と聞かれたので、
「東京の黒田杏子氏主宰の『藍生』(あおい)と言う結社に入ってます」と言うと、
「えっ、そうなの。それを先に言いなさいよ。どうしてそんないいところに入っているの?」と聞かれたので、
新聞や週刊誌など色んな所に投句をしていたこと。その中に、毎日新聞に月に一回「女の新聞」というページがあり、そこに『楽句塾』があり、その選者が黒田杏子氏であったこと。そこに投句していたのだが何故かよく入選させて頂き、秀逸から特選を頂いたこと。その後、黒田宗匠からお手紙を頂き、『藍生』という俳句結社を立ち上げるので参加しませんかと・・・。それで、1990年創刊号より俳誌『藍生』に参加したこと。
 そのような色んないきさつを話し、『楽句塾』に最初に入選させて頂いた句の話をした。

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[1990年12月6日、毎日新聞『楽句塾』   と   俳誌『藍生』

「最初の入選句はこんなのでした」と・・・。

ヴィオロンを日傘の中に抱く少女  照れまん

 それで、この句のことを含む昔話などを話した。
 子供の頃田舎でバイオリンを習っていたこと。ふたいとこの姉妹が先に習っていて、その親がお医者さんで、父といとこだったので、「あんたの所も習わせたらいいのに」、と言うことになり、私と兄も習うことに。それで、バスで通っていたこと。そのお姉ちゃんの方はちょっと大人っぽくておしとやか。妹はお転婆でキャピキョピ。バス停がお菓子屋さんだったので、妹と私はそこを出たり入ったり。その時、お姉ちゃんは日傘を差してちょっと離れたところで佇んでいた。そんな昔を思い出して俳句にした事などを話をした。その姉妹はK医師の娘さんで横浜で開業するため小学生の頃横浜に引っ越していったこと。その横浜の家に私はよく遊びに行っていたことなども話した。
 そしたら、「あんたはどこの子かいねえ」と聞く。
「○○村の○○の息子です」と言うと、
「えーっ、内の女房はそこのK医師の所で看護婦をしていたんじゃがねえ」
「え~~!!嘘でしょう(☆∪☆)」
 二人とも驚いて、ただただ顔を見合わせた。戦前・戦後、K医師は我が家の隣で開業してました。どうやら昭和21年に私の姉を取り上げてくださったのが童恋さんの奥様らしい。
 童恋さんから、K医師と一緒に横浜に行ったこと。奥様がそこで婦長をしていたことなどを聞いてびっくり。二人共あんぐりとした顔をしていた。
 私は横浜のK医師宅に遊びに行っていたこと。姉妹はバイオリンを続け、東京の音大に入ったことなど。私が東京でコンサートがあると、K医師夫妻が聞きに来て下さっていたこと。
「世の中、狭いねえ。どんな縁があるか解らんもんだねえ」と二人ともただただ驚いていた。
 松井童恋氏の松井家と我が家とは江戸時代より大変に繋がりの深い家柄だったのです。
 それで、童恋さんに「奥様に挨拶に行ってもいいですか」と言うと、
「どうぞ来て話しかけてやって下さい」というので見舞いに伺った。
 童恋さんの奥様に、「私は〇〇村の○○の息子です」。そして、K医師のお嬢さんと一緒にバイオリンを習っていたことや横浜に度々遊びに行っていた事などを話した。すると、片方の手で私の手を握りボロボロと涙を流され一所懸命何かを喋ろうとされている。
 私が「長い間横浜のK医院や色々お世話になりましたねえ。有り難う御座いました」と言うと頷きながら涙を流され、子供のような笑顔で何度も何度も私の手を握られた。私には「懐かしいねえ・・・、会えて嬉しいよ・・・・」と言ってるように聞こえた。
 その後は毎日、奥様に挨拶に行った。いつもニコニコしながら手を握って下さった。
 童恋さんとやっと親しくなった思った矢先、
「病院にいると大変なので家に連れて帰ります!」と、奥様が入院されて四ヶ月した頃、退院されることになった。

月下美人聖書の神は裸身なり  童恋

「あなたは音楽家とおっしゃっていたよね!」
「はい、昔下手なチェロ弾きをしてました」と答えると、
「あなたは音楽家だから音楽の俳句を作るのは素晴らしいことです。専門家の知識を専門家の言葉で書くのでは無く、出来るだけ解りやすい言葉で誰にでも解るように平易に作りなさい。そこから、色んな所に俳句を広げていけば必ずいい俳句が詠めるようになります。俳句は止めないで、ず~と続けて下さい。そうしたら、きっといいことがありますよ!」と言葉を残されて退院されて行った。

  蚊遣香焚く平凡の一隅に  童恋

 

俳人 松井童恋 その1 ← よろしかったらご覧下さい。
        その2 以降はその1のページ右上に次の記事とありますのでそこをクリックして下さい。

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白梅・紅梅

梅一輪一輪ほどの暖かさ  嵐雪

今年も梅の花が咲いてくれました。
我が家には数本の梅の木があります。昔は梅干しを作っていたのに、最近作らなくなってしまいました。

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むめがゝにのつと日の出る山路かな  芭蕉

DSC_3428 上は一本目

しら梅に明る夜ばかりとなりにけり  蕪村

下は同じ白梅でも、少し花の形がし違います。

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紅梅も一本あります。雪の日の紅梅。

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白梅のあと紅梅の深空あり  飯田龍太

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次に、2013年に撮った写真を一枚。

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以前、2008年に書いた古い記事があります。よろしかったらご覧下さい。
「白梅」← の記事。

「紅梅」← の記事。

毎年きっちり咲いてくれるのがありがたいですね。

しらうめの一輪にして雪月花  松井童恋

今回はこれだけです。また宜しく。

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俳人 松井童恋 その8

松井童恋氏の思い出 その8 俳誌『其桃』

書初めの筆にけものの貂はしる  童恋

 童恋氏は慣れない横浜での生活を始め、東京の会社に勤め始めます。
 昭和30年代は激動の時代。中堅の新聞社とはいえ、大変忙しく、毎日あちこちへと取材に出掛け、原稿を書いていました。博報堂などにもよく出入りをしていたそうです。
 物を書くのは大変性に合っていたのか、そのまま長く同じ会社に務め、定年まで働きました。これは後に田舎に帰った後の話ですが、暫くして毎月集落の新聞地家室便り』(じかむろだより)を発行しています。村の歴史や行事など色んな事を書いていました。新聞を作るのが板に付いていたと言うか、余程お好きだったのでしょうね。
 東京横浜時代の俳句ですが、俳句は個人で続けていたようで、どこかの結社に所属することは無かったようです。随分経ってから仲間が出来たのか、季刊誌のような物を作り、そこで俳句を発表したりしていたようです。

 東京・横浜で30年近くが過ぎ、夫婦共に定年を迎えた後、1980年前後に山口県に帰郷しました。

 古里に帰り先ず行なったことは、山口県にある俳句結社に所属すること。山口県には幾つもの俳句結社があります。その中から、俳誌数点取り寄せ、どこに所属しようか検討されたようです。その結果、下関にある俳誌『其桃』(きとう)に入会することを決めました。

 

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 下関の俳誌『其桃』は1932年(昭和7年)に創刊された長い歴史のある俳誌。芭蕉の流れを汲む美濃派の再興に取り組まれた西尾其桃(1868~1931年)が伝統と格式を重んじ、この地で熱心に俳句指導をされていました。
 西尾其桃は兵庫県明石市垂水の出身。子供の頃近所のお寺の三千堂という僧侶に俳諧の手ほどきを受ける。その後、柳庵一瓢、他何人かの俳人に師事。医学生を志し長崎に行く途中、何故か山口県で下車。長門市の旧大津郡油谷町の内藤医師の書生となり奉公。そこでお金を貯め、大阪の府立医学校に進み医者となる。そして、下関で開業します。
其桃氏は下関市に西尾病院を開設され院長を務めながら、時に上京し森山鳳羽氏に俳諧を学び深める。その他、多くの俳人と交流を深め、明治・大正・昭和の俳人として活躍されました。
 昭和6年、旅先の和歌山県白浜で客死。まだまだ63歳の働き盛り。ようやく息子が後を継ぎ、好きなことが出来るようになったと思った頃の少し早過ぎる死でした。其桃氏の没後、その指導を受けていた息子で病院長に就任していた西尾桃支(とうし)氏が父の意思を受け継ぎ、翌年1932年父の名を冠した俳誌『其桃』を父の友人の東桃園(あずまとうえん)と創刊。
 『其桃』はその後、桃支氏の息子、孫にあたる西尾豊氏に受け継がれ、またその後中村石秋(なかむらせきしゅう)氏へ。そして、現在は池田尚文氏へと受け継がれています。
 童恋さんが入会したのは中村石秋時代だと思います。おそらく、きちっとした伝統的な俳句スタイルが自分に最も合っていると思われたのでしょう。1982年其桃合同句集『桃影第五輯』の二十句初投句。翌1983年1月号の雑詠欄に四句が初掲載される。童恋氏は遠く大島郡から下関へと其桃の俳句大会や吟行会に何度も出掛けられ石秋氏と親交を深められました。余程信頼されたのでしょう。暫く後に其桃の同人になられ、添削コーナーを受け持たれるようになりました。

  しらうめの一輪にして雪月花  童恋

 そしてもう一つ大事なことは、帰郷して大島郡にある句会に参加すること。大島郡には、大きな集落には句会があり、それを束ねる大島郡俳句協会がありました。俳句協会の会長をしておられた田中耕蝶氏と意気投合したのか、暫くして副会長になります。新しく他の村にも句会を立ち上げたり、特別養護老人ホームなどで俳句の指導をされるようになりました。俳句協会の会長さんが亡くなられた後、童恋さんが会長の後を継ぎ、島の俳句会の発展に大いに尽力されました。教育委員会などにも働きかけ、町の公民館での俳句講座を開かれたり、学校に指導に行かれ俳句教室を行なわれたりしました。年に二度、春と秋に郡の句会のメンバーが一堂に会し、「周防大島みかんの島俳句大会」を開催。メンバー全員が投句して合同句集『屋代島』を編纂。2000年前後には島内に12~13の句会があり大変賑やかに大会が行なわれていました。東京から俳人を招いたり、山口県の俳人や愛媛県の句会などとも広く交流されていました。
 「山口県俳句大会」の選者もされるようになり、毎年出掛けられていました。山口県の俳句大会は毎年、市や郡の持ち回り。それを、2007年大島郡に招聘され、大島郡で開催し大いに盛り上がる大会になりました。このように、大変精力的に活動されておられました。

 ところで、童恋さんの俳句で、『其桃』に掲載されたものの中から、私のお気に入りの句を一句紹介します。

三猿の手のおきどころ萬愚説  童恋

225px-The_Three_Wise_Monkeys,_Nikkō_Tōshō-gū;_April_2018 三猿 The three wise Monkes   ( See no evil monkey, Hear no evil monkey, Speak no evil monkey)

 いい句ですねえ~。いつの間にか年を重ねると色んな事が起きます。ちょっとしたことで相手のことが気になるので「こうしたらいいのに!」と楽になるようにと簡単にアドバイスしたら、「ガガガーッ!!」と反論され、目を丸くして首を縮める。私が言ったことが正反対に取られてしまい、予期せぬ反論・反撃に合ってしまう。「言わなきゃよかったー!」と思うのだが後の祭り。そんなことがよくある。そんな時に、この句を思い出す。見ても見ぬふり、聞いても聞かぬふり、言いたくても絶対に言わないように。それが、世の中うまくいく秘訣だとぐっと飲み込む。若い時には自由に意見を言っていたのに、年を取ると色んな事が難しくなります。

物云へば唇寒し秋の風  芭蕉

 余計なことを言えば災いを招きますよと・・・・。三猿の句は、この芭蕉の句に通じるところがあると思います。芭風・美濃派の再考を掲げておられた其桃氏の思い。それを童恋氏もよく理解され、賛同されていた。だから、童恋氏が『其桃』を選ばれたのだろうと言うことがよく解ります。
 童恋氏は俳句の話をされる時、よく芭蕉の言葉を口にされていました。「不易流行」・「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」・「古人の跡をもとめず、古人のもとめたる所をもとめよ」。その他、沢山の言葉をおしゃってましたが、その中から一つ。
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通する物は一なり」。この言葉を教えて頂いた後に私の作った句、

  絵師歌人茶人俳人花衣  照れまん

 この句を読んだ童恋氏。「君は面白い句を作るねえ~!とってもいい句だよ。もし有名俳人がが作った句なら名句になるけど、君が作ったのでは・・・・残念だねえ~!!」と言うので、二人で顔を見合わせて笑った(☆∪☆)。
 私が笑いながら「これは、『曲水の宴』を詠んだものなんですよね!」
と言うと、「なるほどねえ~」と頷いておられた。

(つづく) 

俳人 松井童恋 その1 ← よろしかったら、こちらをご覧下さい。

  ーー △ ーー ▼ ーー ◆ ー HAIKU ー ◇ ーー ■ ーー ★ ーー 

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「冬の蝶」2021年1月 越冬ムラサキツバメ発見

3年ぶりに『ムラサキツバメ』が越冬に来てくれました。

昨年12月に庭で飛んでいるのを見ていたので、来ているなとは思って居たのですが、ちょっと体調が悪くて庭には出ず。新型コロナのことがあるので、無理はぜず自重してました。
今の世の中、風邪を引いてもコロナでは無いかとビビります。怖いですよね。

1月になり、やっと裏庭に出てみたところ、越冬しているのを発見。二つのグループがあり、Aグループは7~10頭。Bグループは18~20頭とかなり沢山居ます。
この蝶は三密が大好き!折り重なって眠っています。昼、天気がよくて暖かくなると起き上がり周りを飛んだりしています。

まずは裏庭の葉蘭の写真。この中の中央付近に50センチほど離れて二つのグループがいます。

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まず、多い方のBグループ。
葉蘭の葉の下に居るので見つけにくい。
暗いので写真にはとても撮りづらい。

DSC_7358

暗くて見にくいので、翌日鏡を出して太陽を反射させて明るくして撮ってみた。
左手に鏡、右手にカメラ。なかなかうまく撮れない。
ざっと数えてみると18~20頭はいます。重なっているので正確には解りません。

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昆虫綱・チョウ目(鱗翅目)・アゲハチョウ上科・シジミチョウ科・ミドリシジミ亜科・ムラサキシジミ族・ムラサキシジミ属・ムラサキツバメ

学名:Narathura bazalus  日本産亜種 N.b.turbata

英名:powdered oakblue

和名:ムラサキツバメ

ムラサキツバメ と ムラサキシジミ はとてもよく似ています。
僅かな違いは羽の後ろに小さな尾状突起があるのがムラサキツバメ、無いのがムラサキシジミ。羽の先がやや丸みのあるのがムラサキツバメ。尖っているのがムラサキシジミ。

東南アジアからヒマラヤ東部・中国南部、日本にかけて生息。南方系の小さい蝶。以前は九州や四国に生息していましたが、今では関東南岸以西に生息域を広げています。
冬には集団で草むらの葉陰や葉裏で越冬するのが特徴。

続いて、Aグループの写真。

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こちらは少し少なく、およそ10頭。
こちらも翌日、鏡を持って行ってみました。鏡で照らされて、みんな起きてしまいました。

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上の写真、羽を開いているのはメス。この蝶は珍しくメスの方が綺麗。
下はオス。集団から出てきて日光浴をしています。サルスベリの木に止まっています。

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初蝶は眠るムラサキツバメかな  照れまん

DSC_2494 このメスはかなりくたびれていますが、かろうじて尾状突起が残っているので、ムラサキツバメと解ります。

今までの写真は  ニコンD90。
これからの写真は ニコンD5100。
まずは、Aグループ。

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次も鏡で照らして撮っています。前日より少し増えています。

 DSC_2319

越冬のムラサキツバメ重なりて  照れまん 

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昔撮った写真を一枚

DSC_1401 これは、メス です。
紫が美しい!

もう一度 Bグループ。
曇りなので、画用紙をレフ板代わりにして撮ってみましたが、少しは明るくなりましたがやはり暗いです。

 

DSC_2328 

下は日が射した時に鏡で照らしています。

DSC_2341

左手に鏡を持っていると、光の角度が難しいし、カメラの望遠が使えない。いちいち望遠を伸ばしてピントを合わせてみて、それから鏡を持って撮る。一眼は重いので、ピントはぶれぶれになり難しい。そこが面白い!
蝶の方も鏡で照らされるので「なんだなんだ」と起き上がってきます。「何かおかしいぞ!」と思うのでしょうね。なので、すぐに鏡をそらします。

さてさて、俳句では冬の季語に「冬の蝶」があり、傍題に「凍蝶」(いてちょう)・「蝶凍つる」(ちょういつる)・「越年蝶」・「冬蝶」などがあります。

  被害妄想者そこらを散歩冬の蝶  山口青邨

  凍蝶に指ふるるまでちかづきぬ  橋本多佳子

 

昔撮った写真でメスとオスを一枚づつ。
最初はパナソニックのコンデジ。

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「冬の蝶」というと、どことなく死にそうな儚げなかわいそうな趣があります。紋白蝶や黄蝶などを真冬に見かけることがあります。こういう蝶が冬の蝶なのでしょうが、ムラサキツバメはこれらの冬の蝶とは少し意味合いが違うかも知れません。しかし、れっきとした冬の蝶です。ムラサキツバメには冬を生き抜く知恵と強さがあるようです。

  冬の蝶いづこもくらき夜明けにて  飯田龍太

  五千人死亡のニュース蝶凍つる  照れまん

次はカシオのコンデジ。

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  密集密接密着冬の蝶  照れまん

そんなこんなで、2021年最初の記事で、「冬の蝶」、「2021年1月、越冬ムラサキツバメ発見」を載せて見ました。
都会にいると、冬に蝶を見ることは、なかなか無いかも知れません。ここはすごい田舎なので、色んな動物がいるのでありがたいし嬉しいですね。
今回は、我が家の庭に来てくれるとても可愛い蝶を載せて見ました。

以前、沢山ムラサキツバメを載せましたが、その中の一つ、
2014年「越冬ムラサキツバメ」 ← お暇でしたらご覧下さい。

三密の越冬楽し蜆蝶  照れまん

どうしても、コロナ禍から離れられません。
皆様、どうぞコロナにはお気を付け下さい。では・・・・。

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俳人 松井童恋 その7

松井童恋氏の思い出 その7

回天の出口なき海虚貝    童恋

 1945年昭和20年8月15日、終戦を迎え武装解除。その後、無事生きて故郷に帰ることが出来ました。

 軍隊生活が長かったので、もう30歳に手が届こうかという年になっていました。親は急いで結婚させたかったのでしょう。松井家の親戚に吉田家があり、そこには女の子しかいなかったので養子に出されることになりました。吉田家の娘さんは戦前より看護婦をしておられました。そのお嬢さんと結婚。松井姓から吉田姓に代わりました。

  黄心樹や妻との仲はふたいとこ  童恋 
  (おがたまや つまとのなかは ふたいとこ)

オガタマ 黄心樹 オガタマノキ モクレン科の常緑高木

 戦後、田舎は爆発的に人口が増えました。復員してきた兵士や満州・朝鮮に移住していた人達が続々と引き揚げてて来たのです。
 瀬戸内の小さな島ですが昭和20年代、人口が6万人を越えていました。ちなみに、現在は1万5千人です。私が小学校時代、児童が千人を超えている学校が三校あり、私の小学校は少し端の方になりますが、それでも500人の児童が居ました。     

 元々瀬戸内の島々は土地や田畑が狭く仕事場が無いのに加え、人が増えたのでなかなかきちっとした職業には就けません。童恋さんは農協などの臨時職員をしながらの生活。奥様は結婚後も看護婦を続けておられましたので、夫婦共働きをされていました。
 奥様は私の村の開業医のK医院で看護婦をしていました。k医師は軍医上がりのバリバリの外科医。そこに、隣村から歩いて山を越え、毎朝通って来ていました。
 私の村には別に小さな病院がありました。木造平屋建て隔離病棟もある古い病院。戦後はどこの病院も大変な医師不足に悩んでいました。そこで、開業医のk医師に村の病院の院長になってくれないかと要請が来ます。K医師は快く受け入れ村の病院の院長になります。童恋さんの奥様は一緒に婦長として赴任する事になりました。
 村の病院には結核病棟があり、その患者さん達の為に、夫の童恋さんは俳句の指導をされるようになります。

神の留守鳥居はいつも開いてをり  童恋

 昭和20年代後半になると島の中にバス路線が開通し、よその村に通うのも容易になり、童恋さんは各村に俳句会を作リ指導をしようと思っていた矢先、一つの騒動が持ち上がります。

DSC_2186 戦前・戦後開業医をしていた田舎のK医師宅玄関 今も建物は残されています

 私の村にある隔離病棟のある病院は木造平屋建ての戦前の古い建物で、かなり老朽化していました。それで、新しく建て替えようと言うことになります。道路を隔てた向かい側に新しく二階建て木造モルタル造りの病院を新築する計画。向かいの土地は狭く窪のような所で、南側に山があるので日当たりのよくない立地条件がいいとは言えない土地でした。
 その頃、近くの村にも同じような戦前からの木造の結核病棟のある病院が二カ所ありました。つまり近くに三カ所の木造平屋建ての古い病院があり、それぞれが同じように立て替えの時期を迎えていました。
 この件に対しK医師がズバリともの申します。
「こんな小さな病院を幾つも作るより、広い土地のあるところに合併して、大きな鉄筋コンクリートで三階建てか四階建ての建物を建て、診療科目を増やし、手術が出来る総合病院を作った方がいいのでは無いか」と提言します。
 私の村はバス路線の本線ではなく支線になるので、ちょっと不便で土地も狭いのです。それに比べ、近くの村には土地が広く本線に当たるので交通の便がいい村があります。誰が考えてもその方がいいのに決まっています。K医師はごく当然のことを言ったのですが、これが、村人の反感を買うことになりました。
 村から病院が出て行くことに大反対。商店などは「病院があるから人が来るし物が売れる。もし無くなったら、人が来なくなり物が売れないし村が寂れる。これは死活問題!」と猛反発。村中を巻き込み大騒動へとつながっていきました。
 莚旗に「K医師は出て行け」などと書いてデモ行進を行ない、病院の前にピケを張って医師が入れないようにしたりしました。各商店は医師の家族に一切商品を売らないようにし、医師の子供とは遊ばないようにと村八分にしました。
 今では村八分などは使ってはいけない言葉ですが、昭和20年代にはまだ田舎には残っていました。
 この当時、東京でも安保反対など猛烈なデモが行なわれていたので、そういう時代だったと言うことが言えるかも知れません。

DSC_2195 
戦前戦後、村の古い病院が使っていた水槽塔。
塔の向こうに病院があり、左奥に結核病棟がありました。
今はこの塔だけが残されています。塔のうしろは後に建った倉庫です。 

 K医師は近くの別の村の病院に転勤させてもらったりしたのですが、どうにも具合が悪いのです。やはり生活がしにくいのです。そこで、医師はとうとう田舎を離れる決心をします。
 ご自身が東京慈恵会医科大学を卒業していたので、友人が沢山関東に居ました。そういうことで友人に相談したところ、横浜に出て来るように勧められます。その友人が色々心配してくれ、土地の取得や医院の建設など尽力してくれたようです。
 K医師は童恋夫妻に「一緒に横浜に行ってくれないか?」と相談し、童恋夫妻は快諾し一緒に行くことになりました。昭和30年代前半にK医師家族と童恋夫妻は横浜に移住しました。田舎から数名の看護婦さんも付いていったようです。鉄筋四階建てで数名の入院が出来る○○外科医院という小さな医院。そこで、童恋さんの奥様は婦長になりました。
 童恋さんは東京の中堅の新聞社に就職する事が出来たようです。大手の新聞社では無く、労働新聞などを作る会社だったそうです。そこで、新生活が始まりました。

 余談ですが、私が5~6歳の頃、K医師家族が引っ越して村を出て行ったかすかな記憶があります。

蝉の穴たつた一度の出口なる  童恋

(つづく)

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俳人 松井童恋 その6

俳誌「其桃」 平成二十三年五月八日発行 通巻第七九七号

松井童恋氏の思い出 その6

「軍隊手帳」

 俳号というのは実に不思議なもの。俳号で呼び合えば、たちどころに句友になり俳句仲間になります。身分の上下も職業の貴賤もなくなり、みんなお仲間・句友と言うことになります。これは、軍隊の中の句会でも巷の句会でも同じこと。どのような職業であっても地位も名誉も関係ありません。皆平等です。俳句を通して通じ合える連帯感のような親しみや仲間意識・戦友のような意識が芽生えます。
 ところで、正岡子規は沢山の俳号を持っています。11歳の頃自分で作った漢詩【聞子規】(ほととぎすをきく)の中に『啼血不堪聞』(血に啼いて聞くに堪えず)と書いています。その後、結核になり自分が血を吐くようになったことから、自分の俳号を子規としています。「鳴いて血を吐くホトトギス」ホトトギスは口を開けると中が赤く見えることからこういわれる。これを自分に重ねたのですね。ホトトギスには、不如帰・時鳥・杜鵑の他いくつかの書き方がありますが子規はこのホトトギス・子規の漢字が一番いいと思ったのでしょう。それで、音読みにして、「子規」としました。自分が作った俳号の中から、友人の夏目金之助君に「これを使ったら!」と『漱石』という俳号・雅号をあげています。「この俳号はいいね。使わせて貰うよ!!」と「夏目漱石」が誕生しました。金から石になったのがよかったんでしょうか??
 高浜虚子は本名が清(きよし)なのでキヨシから「虚子」にしています。
 私は俳句を作った時は全て本名で書いています。以前、童恋さんに俳号にしようかと相談したところ、
「君は本名が俳号みたいだから、それでいいんじゃない!」と言われ、そのまま本名に・・・。ちなみに、川柳を作る時には柳名を付けていて、[常痔照れまん]としています。ブログもその柳名をハンドルネームにして『照れまん君の俳句歳時記』としています。ドイツの作曲家に、Georg・Philipp・Telemannと言う人がいて、その方のGeorg(ゲオルグ)を英語読みにジョージと読ませ、それとTelemannはそのまま。昔大阪にいた頃所属していたバロック合奏団が[テレマンアンサンブル]でした。それと、私の実家が○○寺というので、そこからもじって、そして常に痔持ちなので、それも含んでいます。ブログの中では俳号を「照れまん」とし、本名は使っていません。
 皆様も是非俳号を付けてみて下さい。面白俳号や自分の考えを俳号にしたもの、あだ名や駄洒落などそれぞれがそれぞれの俳号を付けるのも、なかなか面白いものです。俳号で呼び合うのは楽しいですよ。

 話が随分逸れてしまいましたが元に戻しますと、童恋さんの部隊は中国の中をあちこち転戦していました。戦争が長引くと仕事は増える一方。大砲の裂けたたもの。銃弾が詰まって撃てなくなった小銃。曲がった刀、車両の故障などなど。どうにもならないものも増え、廃棄する兵器も山のようにあり、あっちからこっちへと移動し、修理に追われていました。

  立哨す秋風にきく便りかな  童恋

  虫の声川瀬にありぬ水音と  童恋

  山鳩の群に風湧く今朝の秋  童恋 (昭和14年9月作)

軍隊手帳

 昭和13年(1938年)から四年間、外地「中国」勤務を行なったので一応満期という事になり、無事に日本に帰る事が出来ました。昭和17年、帰国後は除隊とはならず、予備役になります。一旦、故郷に帰りますが、すぐにまた再招集で本土防衛の任にあたります。終戦まで合計七年間軍隊生活をされました。
 童恋さんの戦時中の俳句が多く残されているのが不思議な気がしますが、それはしょっちゅう自分の家に手紙を書き俳句を添えていたこと。そして、所属していた俳句結社「わだつみ」に毎月五句投句していたこと。それが俳誌には戦地よりの『戦地特別詠』として掲載されていたこと。このことは戦地にいたので全く知らず、戦後暫く経ってから知ることになります。
 それともう一つ、とても大きい理由は「軍隊手帳」にびっしりと俳句を書いていたこと。四年の外地勤務を終えて日本に帰ってきた時、まだ昭和17年だったため「勝った勝った」と大喜びをしている最中。帰国の検閲も左程厳しくはなく、身体検査も厳重なものではなかったので、ポケットの中に軍隊手帳を忍ばせ、没収されることなく帰宅することが出来ました。それで、軍隊手帳が残っていたため、多くの俳句がそこに書かれていて残りました。
 本来没収されるべき手帳が手元に残ったのでよかったですね。私は軍隊手帳の表紙のコピーを見せて頂いたことがあります。「これくらいの大きさよ!」と・・・。今の手帳よりちょっと大き目と言う感じでした。その軍隊手帳は今は田舎の小さな図書館に寄贈されたのではないかと思います。

 ここから話はちょっと飛ぶのですが、お亡くなりになる3年前、平成19年(2007年)、俳句仲間で山口県徳山市(現周南市)大津島の人間魚雷回天の基地を訪れ、吟行会を行なっています。日中戦争から太平洋戦争まで足かけ八年間兵役に就いていた童恋さん。どんな思いだったでしょう。胸にこみ上げてくるものがおありだったのではないでしょうか?おそらく鎮魂の意味を込められ、二度とこのようなことがあってはならないという思いで、句を作られたのではないかと思います。それらの句が『回天残照』の連作として残されていますので、その中から六句だけ選んで載せて見ます。

回天基地 山口県大津島 回天訓練基地跡

        『回天残照』
    花ちるや海の藻屑はよりふかく  童恋
    憂国の花もて海に沈みけり    〃
    大津島桜散りしく回天碑     〃
    亀鳴くや黒髪島の石の下     〃
    英霊の石百二十八春の露     童恋  (平成19年3月)

 読んでいて胸に詰まるものがあります。

絶筆に国あり雁の帰る頃  童恋

 武漢の句会で詠まれた句が「珞珈山のふもとを雁の渡りけり  童恋」でした。この時はまだ自分達がどこに行くか解らないという思いを雁に託されたのでしょう。「雁」は秋の季語。「帰雁」は春の季語。回天基地では「もう帰ってこない、雁が帰っていく頃なのに、・・・・!!」と、詠まれています。
 心に沁みる素晴らしい句です。

(つづく)

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俳人 松井童恋 その5

俳誌『其桃』 平成二十三年二月八日発行 通巻七九四号

松井童恋氏の思い出 その5

「軍医」

 あっという間に、句会は終わりに近づき、少佐が挨拶を始めた。
「今回の句会はとても有意義な素晴らしい句会になりました。大変勉強になりましたし、こんな楽しい句会は初めてです。実にいい句会になりました・・・。童恋君、また次の句会にも来てくれないかな?」
「はい!是非とも来たいです」
「童恋君、もし何か困ったことがあったら、ここにいる誰でもいい、相談してくれたまえ。力になるから・・・。」
と言うと、皆も頷いていた。
「はい、有り難う御座います」というと、句会は終わった。
 帰りも将校用の黒塗りの車で送ってくれた。

 軍隊というのは大変厳しい縦社会。階級が全てで、階級で呼び合う上意下達の社会。下の者が上の者に意見するなど考えられません。しかし、この句会の中は全く別世界。階級では呼ばず、俳号で呼び合う自由で平等な世界。大佐も一等兵もない、自由闊達に意見を述べ合う場。自由に発言するが、納得出来る意見は聞き入れ反省もする。辛辣な発言をしても誰も傷つかないし怒ったりもしない。軍隊の中ではこのようなことはあり得ません。

 俳句の前にはなんびとたりとも自由で平等なのです。そこに存在するのは、俳句に対して真摯に向き合ってきたかどうか。そして、経験の有無。それを、皆が理解しているからこそ、階級をなくした俳号で呼び合う自由で平等の世界が広がっていたのです。
 俳句に出会える事の幸せ。俳句の連衆に会える幸せ。一期一会の幸せを皆が感じていた。まさか、戦争の最前線の軍隊の中で、このような句会が開かれているなど、誰も知る由はありません。まさか、句会に出会えるなんて・・・。思いもしなかっただけに、大変幸せなひとときであった。

銃剣に月の出てゐる歩哨かな  童恋

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  認識票肌に冷たき今朝の冬   童恋

 童恋さんの部隊は年を明けてまもなく、武漢を離れることになり、二度と武漢の句会に参加することはなかった。 俳号で呼び合っていた為、あの句会のメンバーが誰だったのか、本名は知らぬまま・・・。

  夕とんぼ作戦近く色めきぬ  童恋 (昭和十四年九月作)

 その後二年ほど経ったある日、中国の別の地に駐屯していた。そこで、健康診断を受けることになり全員が医師の診察を受けることになった。
 自分の順番が来て診察を受けた。診察が終わると、軍医殿が自分の顔をまじまじと見て尋ねた。
「君は、俳句をやったことはないかね?」
「はい、あります」
「武漢の句会に出たことはなかったかね?」
「はい、あります」
「やっぱりそうだ。君の俳号は何とかと言ったよね~。えーと何だっけ・・・、え~~と・・・。」
「はい、童恋であります。」
「そうだ、童恋君だ!やっぱり童恋君だ。いやー、君~、元気だったか~。よかったよかった。」
と言い、肩をポンポンと叩いて喜んでくれた。
「私も今はこちらに来ていてねえ~」
「軍医殿はあの時、進行役をされていた少佐殿でしたか。」
「そうだよ。武漢の句会は、陸軍軍医部の主催したものでね。俳句の雄志が集まってのものだったんだよ」
「そうでありましたか。まったく失礼致しました。」
 うしろには健康診断の兵士が待っているため長話も出来ず。
「またいつか、会いたいね!!何か困ったことがあったら私を訪ねて来なさい!」と言われ、「はい」と答えたまま、別れてしまった。
 偶然の再会に、お互い大変な喜びだった。
 童恋さんの部隊は修理や運搬が主な仕事なので、間もなくその地も去り別の地に転進。その為、軍医殿には三度目にお会いすることはなかった。

便り書く電灯くらき焚火かな  童恋

(つづく)

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俳人松井童恋 その4

俳誌『其桃』 平成二十二年十二月八日発行 通巻第七九二号

松井童恋氏の思い出 その4

「花鳥諷詠」

 ここでちょっと軍人の話をしますが、上級士官になるような人は、士官学校や陸軍大学校、海軍兵学校を卒業した文武両道を極めた人達。ものすごく頭のいい優秀なエリート集団。もし、平和な時代であったらなら、工学部に行って研究者や博士になったり、法学部に行って検事や弁護士、経済学部に行って経営者、教育学部に行けばいい先生になったであろうし、その他スポーツや芸術など、どんな分野に行っても秀でた人になったであろう人達。そんな人達が、世が世であるため軍人を志し、お国の為になりたい、国を救いたいと思って軍人を志したのです。
 兵学校ではきちんと勉強し色んな科目もあり一般教養も勉強しています。英語は敵性語として禁止されていましたが、江田島兵学校では、ちゃんと英語の授業もありました。国語では古文や漢文も勉強し、和歌などもしっかり勉強しています。
 武士の時代もそうですが、軍人ならば死ぬ間際にさらりと辞世の句を詠みたい、と言うのは誰の心にもありました。そういう意味では、武漢の司令部には文学を志す人がをり、その中に俳句をたしなむ人がいて、そういう人達が集まって句会を開いていたのです。

 Hankou_1930(1938年金子常光により描かれた武漢三鎮の図 右下が武昌、左の中州が漢陽、中・上が漢口。この三鎮が統合して武漢になった)

 職業軍人としては勉強をしたいという向学心はあっても、なかなか巷の句会には行けません。外の空気に触れることはなく、本物の句会に行くことは出来ないのです。
 そんな所に巷の句会で叩き上げの俳句結社に所属していた一等兵が現れたのですから、これほど嬉しいことはありません。皆、自分の句がどう評価されるのか童恋君に聞きたいのです。
 自分の句はこういう気持ちで書いたのですがどうだろう?とか、季語で悩んだんだけどこれどうだろう?とか、童恋君に意見を求めます。
 それに対し、童恋君はズバズバと批評をします。
 句の欠点をズバリと指摘された上官は「ばれたか~!!」などと言うと、一同大笑い。
「これは散文です」とか、「只の説明になっています」とか、「これは、季語が無理矢理入れられているので、季語が動きます」とか「これは月並みです。平凡です」とか言われると、作者が「参ったなあ~、お見通しだねえ」と言うと、またまた大爆笑。
 添削されたりすると、「本当にそうだね。よくなったよ!」と感激したり納得したり、和やかな楽しいムードで進みました。
 俳句は妙に考えるよりも、名詞と助詞があれば出来ること。韻文であること。季語の働きや季語の解説。切れ字や切れについて。一物仕立てや取り合わせ・二句一章など。それから、推して敲く、推敲すること、などなど・・・。自分の考えや行動を書くのではなく、ものを書くこと。それから、『客観写生』『花鳥諷詠』などを、解りやすく名句を例に上げて解説。
 「この句は共鳴句です。この部分がとてもいい!」などと褒めたりすると、褒められた方は妙に照れたり。それを廻りが冷やかしたりして、笑いの絶えない楽しい句会になりました。

漢口の零下の灯りまばたきぬ  童恋

(つづく)

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