照れまん君の歳時記 体育の日

    
 花火鳴り体育の日の朝と知る       照れまん
                                         
 昭和31年(1956年)、一人の少年が福島県の県立高校に入学した。
クラブ活動は何部にしようかと迷ったが、珠算部に入ることにした。
しかし、毎日毎日ソロバンに向かっているのが物足りなくなり、若いので体を動かす方が
いいと思い始めた。
 ソロバンはすでに3級を持っていたので、これでいいとし、剣道部に転部することにした。
ここでは上級生のシゴキが待っていて、毎日のように防具の上から叩かれ、しょっちゅう
体にアザが出来、痛くて辛いので辞めてしまう。
 その後、速記部に入るがこれも1年生の終わり頃には辞めてしまう。
 何をやっても続かなかった。
     
 家は農家なので学校から帰ると、山のように仕事はあった。
まずはヤギの餌やりと乳絞り。それから、風呂掃除、風呂の水汲み、薪割り、風呂焚き。
風呂は焚きつけてしまうと、暫らく手持ち無沙汰になる。そこで、少し走ってみることにした。
 毎日30分、欠かさず走り始めた。
 高校2年生になった5月3日。12キロの「第9回憲法発布記念マラソン大会」という、
ロードレースがあるので出てみたくなった。
 自分には自信があった。
 しかしながら、結果は、百位にも入れない惨敗だった。
 2週間後、今度は「ぼたんマラソン」という20キロのロードレースがあるのでこれに
出場することにした。
 前の大会は、最初から飛ばし過ぎ、途中で息切れをして遅くなったので、今回は前半
自重して、後半調子を見てペースを上げようと少し学習していた。
この大会で、後半徐々にペースを上げ 落ちてきた前の選手を次々と追い越し、
堂々の2着でゴールした。
 これには高校の陸上部の先生が驚いた。
「うちの学校に陸上部より速い生徒がいるとは」、である。
 早速先生は、
君、陸上部に入らんか」 と誘った。
 彼は喜んで承諾した。
 三年生の時、インターハイや国体の5000mに出場はしたが、一位とは1周以上離され、
記録としては平凡なものでしかなかった。
                 
                            2
 昭和34年、高校を卒業すると、父親の影響で陸上自衛隊に入った。
最初の3ヶ月は青森の八戸教育隊に入隊。それが終ると地元郡山の第6特科連隊で
厳しい訓練を受けていた。
6ヶ月で基礎教育と訓練を終え、二等陸士として通常勤務についた。
 この時から、夕方5時に終り、時間の余裕が出来たので、夕方基地の中を走ることにした。
 毎日走っていた。
 これを見ていた上官がいた。
 訓練の後、まだ走っているので、よほど走るのが好きなのか、馬鹿なのか、どれほどの
運動能力があるのか試してみたくなった。
 ある日、一緒に走ろうと、一周2キロのコースを3週してみた。
上官は体力には自信があったが、それでもしんどかった。
しかし、彼は息一つ切れていなかった。
「ありがとうございました」
と言うと、グラウンドを走り帰って行った。
 翌日、夕方5時になると、ドアをコンコンとノックする者がいる。
誰かと思えば彼が入ってきて、
「班長殿、きょうも一緒に走って頂けませんか」
と言う。
まさか断るわけにもいかず、一緒に走ることにした。
 上官は、きょうは思い切り飛ばして思い知らせてやろうと気合を入れて走り始めた。
ビュンビュン飛ばしたが、ぴったりと後を付いて来る。これでもかとスパートしてもくっついてくる。
 3周廻るとさすがに上官の方が疲れてしまい、6キロでぜいぜいして走れなかった。
 しかし、彼はまったく息が切れていない。
「ありがとうございました」
と言うと、グラウンドをぐるぐるっと廻り帰っていった。
さすがの上官も、こんな奴が居るのかと驚いた。
 翌日も、またその翌日もドアをコンコンとノックする。
さすがに上官も諦めて、毎日一緒に走っていた。
 いつの間にか、上官の方が彼に感化され、陸上の魅力に次第に引き込まれていった。
 そこで、2人で陸上部を作った。
 たった二人だけの陸上部だが、走るのが楽しかった。
二人で本を読み、色々トレーニングも工夫しながら取り入れていた。
2人が監督、2人がコーチ。そして2人が選手だった。
たった二人なので、何をするのも休むのも自由だった。
 時にはタイムトライアルをし、何秒縮めたと二人で一喜一憂していた。
ただ走っているだけで楽しかった。面白かった。走れることが幸せだった。
            3
 そんな日が続いていたが、二人とも自分達がどれくらいの実力なのか試して見たく
なってきた。
 昭和35年、5月3日。あの高校2年生の時、初めて出場し惨敗したあの大会と同じ、
第12回憲法発布記念マラソン」に出てみることにした。
前回は百位にも入れなかったが、今回は自信があった。
 結果は、上官が2位で自分が優勝した。
次はもっと大きな大会で、正式な陸連公認の大会に出てみたくなった。
6月、「全国勤労者福島県大会、20Kmロードレース」に出場し、優勝
8月、福島県総合体育大会5千メートル優勝
 その他、駅伝にも数々出場し、大活躍していた。
 これを、自衛隊が見逃すはずはなかった。
折しも、東京オリンピックの開催が間近に迫り、自衛隊体育学校が設立され、
オリンピック選手の育成が急務になっていた。
 そこで、白羽の矢が、彼に当てられた。
 彼は自衛隊体育学校に入校させられ、毎日毎日厳しい練習に明け暮れることになる。
 昭和39年、彼は東京オリンピックに出場し、みごとマラソンで三位。
銅メダルを獲得した。
誰を隠そう円谷幸吉選手である。
 代々木の国立競技場にたった一本だけ、日の丸が掲げられた瞬間です。
            4
 オリンピックの後、彼の生活は一変した。
 毎日毎日のパーティー、祝賀会、テレビ・ラジオへの出演。 
そして、取材やあちこちの式典への参加や挨拶廻りなどに振り回されることになる。
行く先々で「次は金メダルを」と言われ、彼も「メキシコでは必ず金を取ります」と約束した。
みんな、銅では満足してくれなかった。
 自衛隊では2階級特進。
 昭和41年二月からは福岡県久留米市にある、陸上自衛隊幹部候補生学校に彼だけ
無試験で入校。
八ヶ月間勉強に明け暮れ、まったくトレーニングは出来なかった。
 この頃、彼にとっては信じられないようなことが、次々に起こった。
 前年の昭和40年、彼は陸上自衛隊員でありながら、中央大学の夜間部に通い、
3年生になっていた。
 ここで大学側が箱根駅伝に出てほしいと要請し、彼も一度でいいから箱根が
走りたかったのでOKした。
 しかし、他の大学にとってはたまったものではない。
オリンピックの銅メダリストに走られては、1区間だけで5分以上の差をつけられてしまう。
 彼は元々実業団の方で走っていたので、二重登録が発覚し、学生の陸上大会には出場
出来ないことになる。
そうしたら、今度は実業団の方で、学生の資格があるのなら、実業団では出場資格が
無いとされた。彼は大学からも実業団からも締め出しをくらった。
 この問題は、結局自衛隊側が手続きの不備を認め、陸連が中に入り、実業団の方には
出場できることになった。
 真面目な彼にとっては、何がどうなっているのか、さっぱり解らなかった。
彼は長年お付き合いをしている女性がをり、どちらの家族も喜んでくれていたので、
婚約を発表した。
 直属の上司のコーチも喜んでくれた。
彼女は元自衛隊員で、郡山時代に知り合い、愛をはぐくんでいた。
真面目な男がプロポーズしたのであるから、どの様に話をしたのか興味が湧く。
オリンピックの前、強化合宿の帰り、香港に立ち寄った時、
「君原君、買い物に付き合ってくれない」
と言われ、君原選手がダイアモンドの指輪を買うのに付き合っている。
買い物などしたことがない彼が、恥ずかしそうに嬉しそうに指輪を買う姿が、いつまでも
忘れられないと、君原選手はいいます。
 オリンピック前に、すでに結婚を心に決めていたのでしょう。
 コーチは結婚すると、食事などの栄養面や精神面もよくなり、何より自衛隊に理解がある
女性だし、とても似合いの夫婦だと思い賛成した。
 ところが自衛隊の幹部から横槍が入った。
チャラチャラするな。メキシコで金を取ってからにしろと言う訳である。
仕方なく結婚は延期された。
 ところが、それから暫らくして、突然彼女から箱が送られて来て、婚約破棄
申し入れられた。
箱の中には彼が遠征先で買ったお土産や、手紙など思い出の品物が入っていた。
真面目な朴訥とした青年が一生懸命書いた手紙が、すべて送り返されて来た。
彼には何が起きたのか、まったく理解できなかった。なぜ彼女が、何の相談も無しに
断るのか、彼には理解できなかった。
 聞きに行きたかったが行くことは出来なかった。
 それに追い討ちをかけるように、彼の直属の上司長年のコーチが、突然転属命令
で北海道に飛ばされた。
 勝手に結婚に賛成をした見せしめではないかと噂された。
それに、彼にはチームメートが居て、いつもペースメーカー役を努めていてくれた、
2人の隊員も転属命令で、地方に飛ばされた。
 彼はまったく孤独になってしまった。
 新しく彼のコーチには、ハンドボールのコーチが当てられた。
何故このようなこと事になるのか、彼には何が何だか、さっぱり解らなくなった。
           5
 それに彼には、もう一つ深刻な悩みがあった。
 それは、オリンピック以前より、相当に腰が痛く、椎間板ヘルニアを患っていたこと
である。トレーニングをすると、痛くて夜寝られないほど疼く日もあった。
それでも少し休んではトレーニングをしていた。
 メキシコオリンピックが来年に近づいてきたので、少しペースを上げようとトレーニングの
量を増やした矢先、アキレス腱部分断裂と言う重症を負ってしまう。
腰を庇いながら走っていた無理がたたったのです。
 手術しか手立てが無かった。
 其処で彼は一か八か、ヘルニアの手術に賭けてみることにした。
 手術で動けなくなるのなら、先にヘルニアの手術をし、アキレス腱の手術をその後で
しようと考えた。
 どちらの手術も成功はしたが、もう自分の体ではなくなっていた。
今の医学のようにスポーツ医学が進んでいるわけではなかったし、リハビリも今のよう
には進んでいなかった。
 三ヵ月間、まったくの寝たきりの生活をしたため、筋力は衰え、長い間の激しい
トレーニングで、体のすべてのしなやかさがが失われ、まるで自分の体ではない
ような重い感じだけが残っていた。
 それでも彼はリハビリを開始し、トレーニングを再開していた。
しかし、もう元には戻らなかった。
 どうにもならない絶望感だけが日増しに膨らんでいった。
 年が明けると、もうメキシコオリンピックの年である。
 自衛隊幹部や国民に対して、
「必ずメキシコでは金を取ります」
と言う約束をしたことが重くのしかかっていた。
           6
 昭和43年(1968年)、彼は福島県の実家に帰り正月を迎えた。
家族兄弟が集まり、とても楽しかった。
正月の宴会ではおおいに歌を歌い、明るく陽気に振舞っていた。
両親は婚約が破棄になったことを心配し、新しい女性を紹介した。
 彼も快く受け入れ、いずれ結婚することに同意した。両親は安心した。
 正月が終り、一月五日に彼は東京へ帰って行った。
 七日の夜、若しくは八日未明、彼は自らの命を絶った。
 誰も気が付かなかった
 九日朝になり、異変に気が付いた。
 自室に鍵が掛かっていたのと冬休み中なので、発見が遅れてしまった。
遺書が二通遺されていた。
 
   父上様 母上様 三日とろろ美味しう
   ございました。干し柿、もちも美味しうござい
ました。
   敏雄兄姉上様、ぶどう酒、リンゴ美味
   しうございました。
   喜久造兄姉上様、ぶどう液、養命酒美味しう
   ございました、又いつも洗濯ありがとうございました、
   幸造兄姉上様、往復車に便乗さして戴き
   有難とうございました、モンゴいか美味しうござい
   ました。
   正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳
   ありませんでした。
   幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、
   ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、
   ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君
   恵子ちゃん、幸栄君、
   裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
   立派な人になって下さい。
 
   父上様母上様、幸吉は、もうすっかり
   疲れ切ってしまって走れません。
   何卒 お許し下さい。
   気が安まる事なく、御苦労、御心配をお
   掛け致し申し訳ありません。
   幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
 福島の家族はテレビの臨時ニュースで知った。
 その後、自衛隊からの電報が届いた。
 みんな信じられなかった。何かの間違いじゃないかと思った。
 取り急ぎ父と兄が東京に駆けつけ、夜8時ごろ我が子の遺体と対面した。
「こうき、こうき!」
と父は呼びかけた。後はもう声にならなかった。
「すまんかった、すまんかった。父親として何も理解してやれずにすまんかった。」
と心の中で何度も何度も叫んでいた。
人前では泪を見せまいと必死に堪えていた。
 こういう結果になってみると納得のいくことばかりだった。
 正月に陽気だったのも、結婚を承諾したのも、自分自身ではもう結論を出して
いたのです。
 しかし、何とスポーツと言うのは残酷なものでしょう。
真面目で朴訥としていて、器用な生き方の出来ない不器用な人間が、オリンピックと言う
大きな渦の中に巻き込まれて、もがき苦しみ果てていったのです。
自衛隊の名誉と国の威信という大きな旗を背負わされて走り去って行ったのです。
 もし、彼が現在に生きていたらどうでしょう。
 科学的トレーニングや運動生理学、スポーツ医学が発達した現代であれば、結果は
違っていたでしょうか。
 彼のスケジュールを見ますと驚いてしまいます。一年の内に、マラソン、5千メートル、
 1万メートル、実業団駅伝、県代表駅伝などおびただしい試合に出場しています。
 オリンピックでも5千、1万の予選と決勝。
 そして、フルマラソンに出場です。
もうマラソンの前にくたくたになっていても、おかしくありません。
今の選手には、とても真似が出来ません。超人です。
 現在、スポーツ選手は、アマチュアであっても、どこかの団体に縛られることなく、
自由に活動している選手もいますし、プロのスポーツ選手では、1億円を越す年俸の人が
ざらに居ます。
 スポーツ人にとっては、とてもいい時代になってきました。
 彼はただ、走るのが好きだっただけなのです。
 たった2人だけの陸上部。
 あの頃は楽しかった、走るのが楽しかったと、友人に漏らしています。
 もう一度あの頃に戻りたい。
 彼が絶望の果てに見ていた夢は、須賀川や郡山を走っていた、あの頃の夢だった
のかも知れません。   
                  享年27歳。
                                                        
   1964年10月10日、東京オリンピックの開会式が行なわれた日。
ブルーインパルスの描いた大空の五輪が印象的でした。
そのオリンピックを記念して、1966年この日が体育の日に制定されました
2000年に、10月の第二月曜日に変更され、現在に至っています
                              おわり
                                
  参考文献 
  橋本克彦著 「オリンピックに奪われた命  円谷幸吉、 30年目の新証言」
  発刊 1999年 小学館
      
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照れまん君の歳時記 体育の日 への8件のフィードバック

  1. Pu'uwai より:

    こんばんは
    円谷幸吉、涙の遺書ですね。
    これが福島県人気質なのよ。白虎隊も同じ。 母も同じ。 私は違うわ、、、、私は大儀の為には死なない。
    だから、死まで追いつめたのは思いつめた本人なのね。 
    あまりに大儀を大事にして、日本国民の期待を深く捉え過ぎて、自分がやらなければ誰がやる。
    自分に、もうその能力がなくなったときに、その力がなくなったときに、「走れません。」 とは言えないのよ。
    マイナスの告白は出来ないの。あくまで期待に応えるか死しかないのね。
    東京オリンピック懐かしいですね。
    東京オリンピックで思い出すことがあります。 
    ここには書けないので自分のとこのコメに書きますね。
     
    照れまんさん、力作有難う御座いました。
    こんな長い文章、とても書けません。 流石ですね。
     

  2. fujim より:

    何かを予感しながら、やはりと思いながら、涙を拭きながら、わずかに覚えていることを思い出しながら読みました。この遺書は記憶にあるところを見ると、 新聞に何行か掲載されたんでしょうね。全文だったかもしれませんが、冒頭のところしか読めていません。スキーの選手にも確か同じようなことがあったのでは?  だからというわけではありませんが、 私は体育会系の人はチョイ苦手です。 が、するのが好きなスポーツも、見るのが好きなスポーツもあります。流す汗は清々しいものであって欲しいと思います。 思ってることはありますが、照れまんさんのようには上手く言えません。何にしても、命と引き換えにしてもいいものが、この世にあるでしょうか。 あるはずがありません。 本人も親も社会も、そのことを肝に銘じなければならないと思います。今までの体育の日に、こんなことにまで考えが及んだことはありませんでしたよ。そう言えば、何か行事があってるらしい拡声器の声が聞こえてたのは、あれは体育の日だったんだー!なんでもかんでも祝日を月曜日に持ってくるのは、気に入りませーん。読み応えのある長文、ありがとう!

  3. 照れまん より:

        Pu`wai さん おはようございます
    長い文を読んで頂きありがとうございます。書いてる時には福島県と言うのは意識してなかったのですが、言われてみるとそうですね。福島県人です。
    須賀川町で昭和15年5月13日に生まれています。9人兄弟の7番目。下2人は戦時中栄養事情と医療事情の悪さからなくなったようです。それで実質幸吉さんが末っ子としてかわいがられて育ったようです。
    父 幸七さんは大正時代に2年陸軍に在籍しましたので、大変厳格だったようです。その後、会社員をしていたのですが、兄が亡くなったので須賀川町に帰り、小作農を継いでいます。
    昭和21年、農地解放令だ出た時、小作農達は少しでも自分の土地を増やそうと、ここは自分が耕していたと主張して、不正に申告するのが当たり前だったのですね。そこで、父幸七さんは「めぐせえことはするな」 と言って、あんたはここまで、あんたはそこまでと、みんなを抑えたようです。そしたら、みんなも幸七とっつあんが言うんなら仕方がない、と納得したようです。大変人望のあった人のようです。
    「めぐせえ」とは、みぐるしいというような意味でしょうか。これは、幸吉選手の中にもしっかりと受け継がれていたようです。
    ではでは、また・・・。

  4. Pu'uwai より:

    「めぐせえ」とは、みぐるしいというような意味でしょうか   ・・・・はいそうです。
    「みったくない」 は ”見たくない” で みっともないの意味になります。

  5. 照れまん より:

      Fujim さん こんばんは
    クーパーさんと勘違いしたお詫びに・・・。と言うわけではないのですが、ちょっと真面目に長い長い文を書いてみました。
    人生って本当に色んなことがありますよね。事実は小説より奇なりでしょうかね。
    こんな素晴しい真面目な青年を死に追いやるなんて、と思いますがこの時は歯車が、そちらへそちらへと廻ったのでしょうね。誰も思い遣ることも考える事も出来なかったのですね。
    今の世の中なら、「どうでもいいですよ」とか「そんなの関係ねえ」とか言いながら、生きていけたでしょうか?
    国家国民のためにと言いながら、ウラで不正をしている政治家、それから、きょうのニュースでは「赤福」が賞味期限を改ざんしていたとか、
    本当に「赤恥」ですけどね。
    円谷選手のような人に生きていて欲しかったですね。
    それから、スキーの選手のこと知りません。もし、誰か解ったら教えてほしいです。本が出ていたら読んでみたいです。
    ではでは、また・・・。

  6. fujim より:

    おはようございます。  駄洒落が出てこないぞーと思いながら読んでいたんですが、途中から、こりゃあくそ真面目 (おっと、失礼失礼、お返しです。) なんだと思いました。 クーパーさんなんてほっときゃいいんです、 自分のヤマシイところは棚に上げて、照れ隠しにガナッテルだけなんですからネー(^@^")。スキー選手で、確かこの人と思って調べた人はまだご健在なんですよ。 私がすごい勘違いをしてるのかもしれません。第一、実際そうなら、照れまんさんが知らないはずナイですもんねー、アハハハ、、、と、笑ってごまかす。  泣いてごまかすことはありませんが、笑ってはごまかしますよ~。^^;;昨日は元同じ職場の友達がお弁当抱えてウチに集合、4人で久しぶりにダベクりました。fujipa も元同僚なので気安く(来易く?)、「ここが一番ゆっくりできる」 と言ってくれて、ときどきおしゃべり会をします。「fu○○さんのブログのコメント、すっごー面白いね~!」「うーん!面白いじゃろー」 と話題になりましたよ。友達は私と同様シャイだから?コメントに顔を出したりしませんが、見てくれています。 コメントで私のブログを盛り上げてもらえて、とてもうれしいです。  ありがとう!!(^。^)ノ

  7. 照れまん より:

       Pu`wai さん
    こんちはーーー。ブログがすごい変わってるんですよ。写真を挿入しようとすると、アップロードでピュッと入っちゃう。
    写真が左端に張り付くと動かないので、中ぞろえで動かしてます。
    これって、私のブログだけじゃあないですよね。それに、画面が広すぎて境がわからないので、2枚は並べるとどうなっちゃうんだろうと言う感じです。
    また暫らく、あれこれやってみて、慣れないとしょうがないのでしょうか????

  8. Pu'uwai より:

    照れまんさん
    ブログを変えたのは他ならぬ私・・・・ではありません。
    昨日からMSNの様変わり第何段だろう? もう変わって、換わって、見合って、見会って くらいの様です。
    下書きが広いから、これできれいに出来たと思って昨日ひどい目に合いました。 脳貧血です。
     
    2枚横に並べるときは、下書きの写真は枠よりずっと小さくしないと投稿すると上下段になります。
    私は写真の横に文字を書いてますが、これはHTMLでおまじないをしてます、普通は1行しか書けません。
    写真の投稿は今までより簡略化されてますね。 
    写真が左右横に張り付くと動かないのは確かにそうです。
    今までのようにカーソルで好きな位置に持って来れなくて、左、中、右しか選べないようです。
    大きさは変えられますね。
     
    こまめに下書き保存を繰り返すようになりました。
    下書き保存の命令の上に写真が張り付いて命令がみえない時は、右横のHTMLの文字をクリックしてください。
    PC用語のアルファベットがずらっと並んでますが、上の方に下書き保存の文字がありますからクリックすると、
    下書き保存ができます。 
    それから、もう一度HTMLをクリックすると編集画面に戻るから又、普通に編集を続けることができます。
    これでも写真が張り付いて見えないときは、一旦写真を消して下書き保存してます。
    面倒になりましたが、そのうちに又様変わりで直るでしょう。
     
    ※ one point advice
       うっかり、書いていた文字や文章を消してしまった時に、その位置でマウスを右クリックすると
       元に戻す(U)
       貼り付け(P)
       削除(D)     と出てきます 元に戻すを青く反転させてクリックすると消えた文字や文章が元通りになります。 
                  元に戻すってことです。 (知ってた、、、アハハ^^)-、大きなお世話(o*。_。)oペコッ)
     
    fujimさん 照れまんさん 離心円さん その他のみなさん
    ブログ友がこんなに大好きな友達になるなんて夢にも思いませんでした。
    ブログがあるお蔭で毎日の楽しみが増えました。 これからもよろしくね。
       
     

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