照れまん君の俳句歳時記 「風邪とガダルカナル」

  いくたびも風邪の体温計りけり    照れまん
 正月そうそう、ソ連からの贈り物を頂いた。
 これは大変な優れもの。
 ソ連は極寒の地。寒い冬を暖かくするのには最適。
真夏のように暖かくなります。とにかく暑いのなんのって・・・。
まるで泳いだように、汗びっしょりになります。
おまけに、頭痛、吐き気、下痢付き。
 1月2日、午後。近所や海の写真を撮り終え帰って来て、風呂掃除をしたまでは
よかったのですが・・・・。
 その後、何だかちょっと頭が痛いし寒気がする。横になろうかと布団に入っていたが、
一向に温まらない。
 晩御飯になっても食欲がなく、胃がちょっともたれた感じがするので、御節の食べ
すぎかなと思ったが、念の為体温を計って見ようかと脇の下に水銀体温計をはさむ。
ゲゲーッ!
 見たら、38.8℃ 。
 やっちゃったー、という感じ。
 インフルエンザに間違いなし。Aソ連だろうか?
 その日の夜、ひどい吐き気と気分の悪さが出たので、もう一度熱を計ってみる。
39.3℃  これが今回の最高新記録。
    とにかく、インフルエンザなら最初の3日間にうんと熱を出しきると、
4日目からは下がり始める。だから3日間の辛抱と薬も飲まず我慢する。
正月2日夜と3日は救急車を呼ぼうかと思うぐらい気分が悪かった。
 思ったとおり1月5日頃から熱が下がり始め、6日朝には7度2分まで下がった。
これで安心と思いきや、5日ごろから下痢がひどくなり始め、20~30回を
はるかに越えるくらい。
 もう、トイレに行ききれない。それに一旦下がった熱が、トイレに通う間に体が冷え
 また38.5℃までぶり返す。
 そこで、とうとう我慢が出来なくなり医師に電話。薬を出してもらう。
           見舞いに貰ったお菓子 「月でひろった卵」
 風邪でダウンして寝ていると、昔同級生のお父さんの話を思い出した。
このお父さんはガダルカナルの生き残りで、よくガダルカナルの話を聞かせてくれた。
ガダルカナルでは30回までは下痢とは言わないそうで、30回を越えてからを下痢
と言い、やっと軍医が診てくれるそうです。
 しかし薬がないので、ただ診るだけでどうにもならないのだそうです。
 ガダルカナルでは、蛾死や病気で大勢の兵隊が死んでいったそうですが、
友人のお父さんは辛うじて撤退まで生き残り、最後の組で生還できたそうです。
   ☆         ☆           ☆        
 昭和16年、初め。召集令状が来て山口の連隊に入隊。半年の基礎訓練の後、
南方のトラック諸島付近の島の守備隊に就く。
 そこで太平洋戦争が始まったことを知る。
 その島は長閑な島で、戦争などどこで行なわれているのかというほど平穏な日々。
半年が過ぎた頃、昭和17年6月、トラック島の司令部に多くの兵隊が集められ、
ガダルカナルへ侵攻する事が伝えられる。
 ラバウルまで輸送船で行き、其処からガダルカナルへ行き上陸用舟艇で上陸する。
 其処では、飛行場の建設に従事し、毎日木を切り根を引抜いて土木作業をしていた。
           
 ようやく、飛行場の姿が現れ第一期工事が終った8月初め頃。突然アメリカ軍が
やって来た。アメリカ軍など、コテンパンにやっちゃろうと話をしていたそうである。
 そんな8月7日早朝、突如としてアメリカ軍の大部隊がやって来た。
艦砲射撃、飛行機による猛爆撃。守備隊も砲台もなす術がなく、反撃のいとまさえ
なかった。
 そして米軍が上陸してきた。
 日本軍は虚を突かれ、ジャングルに逃げ込むのがやっとだったそうです。
 日本軍は、ここを取られると大変なj事になると、大部隊を増援し、飛行場の奪還を
計るが、一度は取り戻すのですが、またしてもアメリカの猛反撃に会い、またしても
ジャングルの中に逃げ込み、その後はアメリカ軍に追われジャングルの中をあっちへ
こっちへと逃げたそうです。
 その頃は、制空権を奪われ、補給がままなくなり、食料・弾薬・医薬品などが底をつき
餓死・病死などで大勢の若い兵隊がバタバタと死んでいったそうです。
木の葉や根や草などなんでも食べ、蛙や蛇はご馳走だったそうです。ところが、
色んな葉っぱや水を飲むとひどい下痢におかされ、30回の下痢など普通になって
いた。
大勢が動けなくなり、倒れている者を見ると、こいつの寿命はあと2週間とか、
あと1週間、こいつはあと3日で死ぬぞとか、解ったそうです。
 荼毘にふすことも、埋葬することも出来ず、そのまま多くの死体が放置されたまま
だったそうです。
 3万を越える兵隊のうち、およそ2万人が戦死。そのうち、病死・餓死は1万5千名
におよぶそうです。
 昭和18年2月、やっと撤退の命令が下ります。
 順次撤退をして行き、自分の部隊は最後の方の組。潜水艦が〇月〇日、〇時〇分
ガダルカナルのどこそこの海岸沖に、夜、潜水艦が迎えに行くという知らせが入ります。
                       
                   
 山を下って海岸近くまで行くのですが、その時、山口の連隊に入隊した当時からの
戦友がもう動けなくなっていたのです。
 「わしも連れて行ってくれ!」
と言うので何人かで話をし、連れて行くことにします。
木を伐り、かずらを巻き付けて担架を作り、それに戦友を乗せるのですが、重くて
抱えられないんです。重いというより、みんな、ろくなものは食べていないので、
ヒョロヒョロ。下痢や栄養失調状態で、自分達自信が立っているのがやっとなのです。
 そこで、前に二人いき、ズルズルと引き摺っていくのです。
 やっと海岸近くまでいき、夜陰に乗じてボートで沖合いに漕ぎ出して行くことになり
ますが、病人は連れてくるなと命令されているので、其処に置いていくことになります。
 その戦友も自分の運命は解っているのです。
 みんなと別れるその時、戦友は一番仲のよかった自分に言います。
「頼みがある。わしの最後の願いを聞いてくれんか?」
「なんや、ゆうてみい。何でも聞いちゃるど!」
「わしには妹がおる。器量はそこそこじゃが、気立てはええ。兄のわしが言うのもなん
じゃが、ほんまにええ娘なんじゃ。そこで頼む、もしお前が日本に生きて帰れたら、
わしの妹を嫁にもろうてやってくれんか。お前なら安心じゃ。兄のわしが見込んだ
男じゃけいと言えば妹は喜んで嫁になってくれるはずじゃ。・・・頼む・・・・。
妹を幸せにしてやってくれんか?」
「よし解った。無事生きて日本に帰れたら、必ずお前の妹さんを嫁にして幸せに
しちゃるけえのう。ここで待っちょけ。必ず迎えに来るけえ、ええか。」
と言って、最後の別れになりました。
 潜水艦とは無事出会え、その後台湾に行き、其処から内地の病院に送り返されて
きます。
 回復して、もう一度兵隊に戻りますが、終戦。生きて古里へ帰ります。
 戦後、ガダルカナルで置き去りにした戦友のことが気になって仕方がありません。
まだ生きているような気がしてならないのです。
 とっくに死んでいるのは間違いないのですが、それを家族に知らせに行くべきか
どうか迷っていました。
 昭和21年になり、終戦後半年以上がたち、少し落ち着いた頃、やっと家族に
知らせに行くことを決心します。そこで、戦友の古里へ出掛けて行きます。 
汽車を降りると戦友が何度も話をしてくれた古里の景色がピッタリと重なります。
家を見つけ、玄関に入って行き、挨拶をし要件を話します。
「〇〇君はガダルカナルにおいて、名誉の戦死を遂げられました。」
と、本当のことは言えないまま、簡単な話を終えると
「失礼します」と、玄関を出て帰路に着きます。
家族の人達が意外に無表情で淡々としているのが少々意外だった。
ずっと以前に戦死の公報が入ってるんだろうなと思い、駅に向かって歩いて
いた。
     すると、後ろから、
「兵隊さん、兵隊さーん」と呼びながら妹さんが追いかけて来た。
「あのー、ちょっとお聞きしたいのですが、本当に兄の戦友ですか?」
「えーっ、どうしてですか」
「あのー、今までに二人、戦友と言う人が来ました。一人はビルマで戦死と言い、
もう一人は中国で戦死と言います。そして今度はガダルカナルで戦死といいます。
どれが本当の話か解りません。前の二人は旅費が無いというので、いくらかお礼を
差し上げました。でも、あなたはそんなことは言いませんでした。あなたは本当に
兄の戦友なんですか?」
と問うた。
「えーッ!」と驚いたが、自分は本当の戦友だと説明を始めた。
「昭和16年、山口の連隊に入隊してよりずっと彼とは一緒でした。」
「確かに兄は昭和16年入隊しました。」
先ほどは疑心暗鬼だったので非礼を詫び、もう一度家に来て話を聞かせて欲しい
と言うので引き返し、座敷に通された。
         
    冬の海  午後3時59分撮影 この1時間後くらいに発熱
 そこで、山口の連隊に入ってから、南方の島に行ったこと。そこは平和で戦闘など
無かった島だたこと。それから半年してガダルカナルへ転進せよという命令で
ガダルカナルに上陸したこと。
 其処では暫らくはよかったが、やがてアメリカ軍の激しい反抗が始まりジャングル
の中を逃げ惑ったこと。飢えと病気でバタバタと戦友が死んでいったこと。
 そして、彼の最後の言葉を伝えます。
「彼は私に『自分には〇〇子と言う妹がいる。気立てのいい子なのでお前の嫁にして
やってほしい。兄が言ったといえば妹は必ず承知してくれるはず。必ず幸せにして
やってくれ』、これが最後の言葉でした。」と伝えた。
すると、家族の者全員が泪をポロポロと出して、大声で泣き始めた。 
「確かに私の息子に間違いありません。南方から一度だけ手紙が来ました。」
ありがとうございますと、両親はお辞儀をしながら泣いていた。
「お兄ちゃんです。お兄ちゃんに間違いありません」と、妹も泣いていた。
    
 結婚と言うのは戦争での特殊な状況下での約束なので、そう簡単にはいかないこと
など、丁重に御辞退して帰路に着いたそうです。
  ☆           ☆           ☆
      
 同級生のお父さんが口癖のように言っていたのが
「君たちは幸せだぞ。好きなものが好きなほど食べられて、好きなことが何でも
出来る。こんな幸せなことは無い.。あまりにも幸せに育ちすぎると、幸せが当たり
前になって、何が幸せか解らんようになるみたいやなあ。
わしゃあ、仕事をしても何をしても楽をしようと思ったことは無い。ガダルカナルの
事を思やあ、死んだ仲間の為にも、ちょっとでも人の為にならにゃあと思ってなあ。
君達は、もっともっと、勉強も運動もガンバラにぁ!」
とよく言っていた。
 今回、高熱を出して苦しんでいるうちに、お父さんのことを思い出していた。
30回を越える下痢も経験したので、ちょっとガダルカナルの兵隊さんに近づいたかな
とそんなことを思いながら、まあこれも良しかなと寝ていた。
十日目を過ぎ、だんだんと回復してきたので、あともう少し。
 10年前に同級生のお父さんは亡くなったが、お父さんの口癖
「君たちはもっと頑張らにゃあ!」
と言うのが、今でも耳に残っている。
       ☆         ☆         ☆               
 
 俳句では「風邪」は冬の季語
 この他に「ふうじゃ」・「感冒」・「流感」・「風邪気」・「風邪声」・「鼻風邪」・「風邪薬
「風邪心地」・「風邪の神」 などいくつもの言い換え、傍題がある。
     最初に書いた私の句「いくたびも風邪の体温はかりけり」はパクリ。
正岡子規の「いくたびも雪の深さを尋ねけり」が元句です。
子規さん、ゴメンナサイ。風邪に免じて許して・・・・ルル。
           
      二日はや風邪をひくとはうかつなり       照れまん
  皆様、冬は風邪の季節。風邪をひかぬよう、お気をつけ下さい。
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照れまん君の俳句歳時記 「風邪とガダルカナル」 への9件のフィードバック

  1. 照れまん より:

       KEN 16 さん  のらさん  Pu`wai さん  Fujim さん  離心円さん
    ご心配お掛けしました。やっと熱も下がり、食事も普通の御飯が食べられるようになって来ました。
    事前に解っていれば、風邪で暫らく休みますとお伝えできたのですが、急に熱が出て寝込んでしまったものですから、お知らせが遅くなってしまいました。
    きょうは、洗濯物が溜まっていたので、これを半分ほど洗濯しました。洗濯するといっても、洗濯機に放り込むだけですからね。
    少しづつ回復してきていますので、もう少ししたらまた外に写真を撮りに出てみようかなと思っています。
    ボツボツ ブログも始めようかと思いつくつ、まずは風邪の記事からと書いてみました。
    長いですから、読まなくていいですよ・・。
     
    皆様も風邪をひかれぬよう、くれぐれもご注意下さい。今年もよろしくお願いします。
     

  2. のら より:

     
    照れまんさん お元気になられて安心しました!!
    ソ連からの贈り物だったんですね・・インフルエンザ。寒いときにはこれがいい??(笑)
    厳冬のソ連と熱帯のガダルカナル。
     
    同級生のお父さんのガダルカナルの話を涙ながらに読みました。それから・・そのお父さんの口癖のような「君たちは幸せだぞ。好きなものが好きなほど食べられて、好きなことが何でも出来る。こんな幸せなことは無い.。あまりにも幸せに育ちすぎると、幸せが当たり前になって、何が幸せか解らんようになるみたいやなあ。」にも心打たれました。
     
    あまり無理して写真を撮りに出かけたらまたぶり返すなんてことありませんか?
    ご自愛くださいね。
     

  3. Pu'uwai より:

    おはよう。
    風邪治ってよかったですね。 
    冬の海 が穏かで美しい色調です。 まるで春の海のように。
    は~る~か ラバウルよ、 また、くるま~では、、、、、 二度と来て欲しくない日本軍とソ連風邪

  4. 照れまん より:

        のらさん  おはようございます
    のらさんは空襲で逃げ惑った経験がおありなのではないでしょうか。
    ほんのちょっと、60数年前のことですが、今はものすごく遠い昔のような気がしますよね。そんなことがあったなんて信じられない時代になってしまいました。
    あそこを通り抜けた人と、私などのように話だけしか聞いたことの無いものとでは、根性が違いますよね。
    根性・忍耐・努力の無いのが私です。
    今後とも、よろしくお願い致します。

  5. 照れまん より:

        Pu`wai さん おはようございます
    ラバウルを知っているのがすごいですね。
    私が子供の頃、まだ戦争が終って10年くらいしかたっていないので、大人は軍隊から帰ってきた人ばかり。酒を飲むと軍歌を歌い、兵隊での話をよく聞きました。
    私の父は丙種不合格。今考えるとよかったなと思います。
    今の若者は、こんな話は聞くことが無いでしょうね。ではまた・・・・。

  6. fujim より:

    照れまんさーん  本当にだいじょうぶー?みかんの話などを私が持ち出したんで、 無理して起き出されたんじゃないかと思って、ちょっと心配しましたよ。そんなつもりはなかったんだけど、誘い出したようになってごめんなさいね。 またぶり返したりしないでくださいよ~。ヤッター、いいのが撮れたぞと思われたに違いない正月2日の夕日、 すぐにアップできなくて残念でしたね~^^とても美しい夕暮れ、自然の美しさの拡がる手前にテトラポット、案外意味ありげに見えていいかもですね。戦後は生きるため、食べるためにみんないろいろなことをしてたように思います。ひょっとしたら友人家族を騙した人も、背に腹は変えられずにやってしまった行動だったかもとも、、、。鉄拾い、いも拾い、かえる釣り、、、こんな言葉も今の世きっと「なんのこと?」ですよね。みんな忘れてしまって、ぜんぜん知りもしないで時代はだんだん新しくなっていって、 いいんでしょうかね。せめて 「こんな幸せなことはない」 と感じる心は持ち合わせていたいもの、、、、ですが。それにしてもPuさんの歌、ふるすぎー! どっから引っ張り出しくるのよー。 父たちが歌ったたのを思い出しちゃったよ。では、くれぐれも、、、あともう少し、最後の一我慢ですよ~、夕焼けがどんなにきれいでもね~ ^-^。

  7. 照れまん より:

        Fujim さん こんにちは
    ブログを知らなかったら、絶対こんな話は書かなかったですね。それにしても文章がへたですね。
    子供の頃大人が酒を飲むと歌っていたのは、
      「貴様と俺とは同期の桜~~ 」 それから   「さーらーば ラバウルよ~ 」  へてから   「きょうも暮ゆく異国の丘に~」
    などは、しょっちゅう聞いてました。
    無理も無いですよね。二十歳前後の一番若くていい時期に軍隊に行ってたのですから。
    Pu お姉様は歌っていたのかも????
     
    まだ体の調子が半分戻っているような、戻ってないような・・・。すぐ、クーパーさんになっちゃうんです。
    そんなこんなで、またよろしく・・・。

  8. Pu'uwai より:

    くくくー 歌ってましたよ。
    わたし~の ラバさん 酋長のむすめ~ 、、、、 えへへー鬼娘だもん、100年はか~るく越えてます。
     
    fuさんが元気なら、ちょっと図に乗って、これ見て
    http://www.rakuten.co.jp/nihonkaki/417539/806383/ 照れまんさん、榕、伐っちゃ駄目ですよ。 100万ドルの木です。

  9. 照れまん より:

                           隊長ー、体調が退潮してまーす。
    「熱はどーだ。」          ハイ、下がりました。
    「下痢はどーだ、特急か?」   イイエ、急行から準急、今は快速くらいになってます。
    「よーし、今日は退庁してよし。」 ハイ、ありがとうございます。
    「元気になったら、しっかり たいちょう(体操)をしなさい。」   ハイ、Pu`wai 隊長、ありがとうございました。
     
    酋長の娘が出てくる所がすごいです。アコウの木も見ました。高いですね。値段。
    それから週刊誌のプレゼントコーナーに、「バオバブ」の木プレゼントと言うのがあったので応募してみました。全国でたった三人ですからね、
    ハズレ だと思います。ではまた、よろしく・・・・。

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