山笑う・山滴る・山粧う・山眠る

「山笑う」・「山滴り」・「山粧う」・「山眠る」は俳句の季語。四季それぞれの俳句の季語です。
「山笑う」は春「山滴る」は夏。「山粧う」は秋「山眠る」は冬です。とても素敵な魅力的な季語ですが、比喩なのでちょっと解りにくいかも知れません。
これは、中国人のたった一人の画家さんが絵を描く心得として述べた詞(ことば)なので無理はないかも知れません。
そこで、この中から春の「山笑う」だけを取り上げて、ちょっとクイズをしてみたいと思います。
クイズ「百人に聞きました」ではありませんが、私の周りにいる俳句を全く知らない友人・知人10人に聞いてみました。

  【クイズ・10人に聞きました】 

問い:「山笑う」という言葉を聞いて、あなたは、この言葉は四季の内、春・夏・秋・冬のどれが一番ふさわしいと思いますか?

答え : 1位「夏」4人。2位「春」2人、「秋」2人の同率2位。4位「夏のような気もするし春のような気もするし秋のような気もするし、どれでもいい感じ」が1人。そして、同率4位「ワカラン」という人が1人でした。
実は私も俳句を始めたばかりの頃「山笑う」という季語を知らなかったので、いつの季語なんだろうと考えたことがあります。おそらく、一番ふさわしいのは夏ではないかと思ったりしました。夏は蝉がミンミン鳴いていますし、小鳥がよく囀っています。それに葉っぱがキラキラと輝いています。
それで、「これは日本の夏でしょう!」と思ったものです。しかし、残念!!違ってました。春でした!!

それではこの季語になっている言葉の元の文章を載せてみたいと思います。
中国宋の時代の後半、呂祖謙さん(1137?~1181年)と言う人がいました。この人が宋の時代の多くの書物を纏めた『臥遊録』を編纂します。この中に郭思さんの書いた『林泉高致集』が入っています。この中に郭思さんのお父さんが言っていた詞(ことば)として『山水訓』が遺されています。
郭思さんのお父さんは、宮廷画家 郭 煕 かくき(1023~1065年)さんです。
『林泉高致集』の中に父が絵を描く心得としてこんなことを言っていましたと言う詞(ことば)書きが書かれているのが『山水訓』です。
『臥遊録』は郭熙さんの死後100年後くらいに編纂されています。
要約すると、呂祖謙さんの纏めた『臥遊録』の中に、郭思さんの書いたの『林泉高知集』があり、その中に郭思さんのお父さんの言ってた詞が『山水訓』に載っていると言うことになります。それで、その中のほんの一文を載せてみます。
山水訓』の中の重要な部分だけ。

春山淡冶而如笑, 夏山蒼翠而如滴, 秋山明淨而如粧, 冬山慘淡而如睡

読み下し文:春山は淡冶にして笑うがごとし、夏山は蒼翠にして滴るがごとし、
      秋山は明浄にして粧うがごとし、冬山は慘淡にして眠るがごとし。
淡冶(たんや)=あっさりとしてなまめかしいさま。蒼翠(そうすい)=樹木が青々と茂っているさま。明浄(めいじょう)=澄み切って清らかなさま。惨憺(さんたん)=暗い空模様や悲惨とか惨めなさま。

とても素晴らしい詞(ことば)です。おそらく江戸時代の文学者や俳人がこれは素晴らしいと季節の言葉とし、季語にしたのでしょう。

その他に郭熙さんの『山水訓』の中にこんな詞もあります

  春山烟雲連綿人欣欣,夏山嘉木繁陰人坦坦,
  秋山明浄搖落人肅肅,冬山昏霾翳塞人寂寂。

こちらの方は見事な漢詩になっています。しかし、殆ど読まれることはなかったのでしょうか?こちらの方には読み下し文が書かれていません。
画家郭熙さんのことを調べていると色々こんがらがっているので少し説明します。例えば、真宗の画家、神宗の画家、禅宗の画家、などと書かれたものもあります。これらはちょっと間違いもあるので説明が必要です。
これは、宋の第六代神宗(しんそう)皇帝のことで、神宗皇帝に寵愛された宮廷画家です。第三代皇帝に真宗(しんそう)皇帝もいますので、誰かが間違ったのかこんがらがっています。神宗や真宗とあるので学者さんが勝手に忖度し、禅宗の画家としたのでしょう。雪舟などは禅宗のお寺で修行した画家ですから。おそらく、勘違いと忖度で、禅宗としたのだと思われます。
正しく書くと、第六代神宗皇帝に遣える宮廷画家でした。

郭熙さんは、当時とても有名な画家で皇帝が特別なポストを作り、自由に書かせていたようです。革新的な絵を描き、後生に多大な影響を与えたそうです。しかし、それほど有名な画家でありながら、その作品は今は殆ど残っていません。僅かに1072年郭熙さんの書いた『早春図』が台湾の故宮博物館に残っています。その他は、メトロポリタン美術館など、数点しか無いようです。
何故絵が残らなかったかというと、宋の第八代徽宗(きそう)皇帝。彼は第六代神宗皇帝の息子になります。どういうわけか父とそりが合わなかったのか、郭熙さんの絵が嫌いだったのか、第八代徽宗皇帝は郭熙の絹本水彩画をすべて外させ、雑巾にしたと言われています。
それからもう一つ、とんでもないことが起こります。第八代徽宗皇帝は隣の「金」との争いが絶えず、早々と長男に皇帝の座を譲り退位します。第九代欽宗皇帝が即位して間もなく、隣の女真人(満州族)の国「金」に攻められて首都である開封が陥落し、皇帝や皇后など大勢の人が捕虜となり北に連れ去られました。この後、欽宗皇帝の9男が別の地にいたので助かり南に逃れて、南宋を建国します。以後、北の方を北宋と呼びます。金は開封の宮殿や街で略奪し。莫大な金銀財宝や調度品などめぼしい物は殆ど満州のハルピンに持ち去ります。その時、荷車がハルピンに着いたときには、まだ開封を出る荷車があったと言うのですから、おびただしい莫大な物品が略奪されたようです。
荷物を運ぶ途中、兵士達は煮炊きをしますが、その時炊事の焚き付けととして、水墨画など紙の多くが燃やされたそうです。惜しいですね。
そんなことから、宋代の物は多くが失われてしまいました。

そして、もう一つとんでもないことが起きます。それは、金がモンゴルに滅ぼされ北宋はモンゴル領になります。朝鮮もモンゴに滅ぼされます。ここで、第一回目の元寇「文永の役」(1274年)が行なわれ、モンゴル・朝鮮・女真人・契丹なの連合で日本に攻めて来ます。
その後、モンゴルは「元」となります。元は「南宋」も滅ぼし、南宋の海軍や軍隊を大量に動員し、二度目の元寇、弘安の役(1281年)を行ないます。
弘安の役では台風がやって来て、モンゴル連合軍は全滅したと言われています。
「金」の首都はハルピンでしたが、後半南の燕京に移しています。その後モンゴルが支配するようになり「元」も燕京を首都にし大都としました。燕京(大都)が現代の北京です。これは外国の首都でした。

中国史の好きな人は、南宋時代に有名な武将岳飛(1103~1142年)を思い出すでしょう。何度も金を打ち破っています。関羽と並び中国で最も人気のある武将です。「金」との講和に邪魔な岳飛に罪をかぶせて牢屋に入れ殺害したのが宰相の秦檜(しんかい)です。秦檜は「金」におもねて南宋の要人を次々殺す恐怖政治を行なっています。それで、中国で最も嫌われる政治家、売国奴として有名な人物です。

中国史って本当に面白いですね。
さてさて、ここは俳句のサイトなので、ぼつぼつ本題の俳句にいきます。

ーーー山笑う・山滴る・山粧う・山眠るーーー

「山笑う」は春の季語。「山笑ふ」と、春の山を笑うがごとしと喩えた。言い得て妙。実に面白いし素晴らしい比喩です。

福来たる門や野山の笑ひ顔     一茶

故郷やどちらを見ても山笑ふ    正岡子規

炭鉱の地獄の山も笑ひけり     岡本眸

頂きに大巌を載せ山笑ふ      照れまん

山笑ふ出来ちゃった婚是非もなし  照れまん

「山滴る」は夏の季語。実は「滴り」だけで夏の季語になりますので、山を書かなくても良い。傍題に「涓滴・けんてき」「巌滴り」[苔滴り」「山滴り」があります。

滴りの涙こらへるやうに落つ    鷹羽狩行

山滴るコロラトゥーラ鳶の声    櫻井康敞

山肌に袈裟懸けの道滴りぬ     照れまん

「山粧う」は秋の季語。傍題に「山彩る」「粧う山」があります。

老眼始めて明らかに山粧へり    尾崎紅葉

赤を黄を寺にも分かち山粧ふ    鷹羽狩行

スプリングエイトの囲む山粧ふ   川崎光一郎

スプリングエイトって何?・・・と思って調べてみました。
SPring-8、 S とP は大文字.。Super Photon ring-8。スプリング8 とは、兵庫県佐用郡に日本原子力研究所と理化学研究所が共同で建設。電子を加速・貯蔵するための加速器群と、発生した放射光を利用するための巨大な実験施設。一周1436メートルの巨大なリング。中央は緑の小高い一つの自然の山になっている。赤穂の北の方。その山が秋の装いになっているのでしょう。現代的な句です。

「山眠る」は冬の季語。傍題に「眠る山」がある。

硝子戸にはんけちかわき山眠る  久保田万太郎

缶コーヒー膝にはさんで山眠る  津田このみ

津田このみ(1968年生まれ、1996年より句作始める)缶コーヒーは日本の発明。しかも、温かい缶コーヒーが買えるのは日本だけですよね?

金銀銅すべて吐き出し山眠る   照れまん

以上、四つの季語を載せました。
それぞれ素晴らしい季語です。
「山笑う」は初めに知った頃は、たった一人の中国人が言った詞を、日本全体でそう思わなければならないことにちょっと抵抗がありました。何となく違和感があり、「それでいいの?」なんて思っていました。しかし、長く俳句を続けていると、段々と「山笑う」は春がいいなと思うようになり、いい季語だと納得するようになってきました。そして、今ではとても気に入っていて、これはとても面白いし、いい比喩だなあと感激しています。
「郭熙さん、素晴らしい詞を遺してくれて、ありがとう(◎∪☆)!!謝謝」

山眠るその懐に臥すことも  照れまん

久しぶりに俳句の季語を書くので、ちょっと緊張しました。間違ったことを書くといけませんから・・・。実はこの四つの季語については七~八年前に書きかけていました。しかし、パソコンが駄目になって新しいパソコンに買い替えたら、それらの記事が何処に行ったのか解らなくなってしまって・・・。それで、今回新しく書き始めました。
「季語」の記事を書くのは難しいし責任があるので、ちょっと躊躇します。ですけど、やっぱり楽しいし、心がリフレッシュします。本当に「季語」っていいなと思います。
そういうことで、また・・・・。

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句集「メトロノーム」その3

神の留守村に管弦楽来たり  照れまん

私が若い頃、今から50年位前。私の所属するバロック合奏団に田舎に来て貰い、演奏会を行ないました。
そのポスターを見た村人が、
「プラスチックの音楽会があるそうな!」とか「バラックで演奏会をするらしい?」とか噂になっていた。
「プラスチックでは無く、クラシックですから・・・。」
「バラックでは無く、バロックですから・・・。」  
ウ~~ン、残念!ではなく、超面白い(w∪w)!!
演奏会は村の学校の体育館で行なわれ、学校の校庭・グラウンドには車が一杯。「こんなに車が止まっているのは初めて見た」と村人が言うほど、近隣の街からも大勢聞きに来てくれました。

葱坊主夢高すぎず低すぎず    照れまん

啓蟄やひよこ売らるる地下の街

鶯の次の音を待つ病臥かな

筍の着物右前左前

タクシーを待たせしままの花見かな

裸子のヴィートゥーヴェンを跨ぎたる

レコードの斜めの傷や敗戦忌

遊園地月夜に国歌響きけり    照れまん

若い頃、LAのディズニーランドに行ったことがあります。夜も遅くなって閉園時間になると、国歌が流れるんです。みんな立ち止まって国歌を斉唱してました。日本なら、さしづめ「蛍の光」でしょうけど・・・。本当に、驚きました(×∪×)!!

喰へるだけ喰って寝る子や一茶の忌  照れまん

そういうことで、最後の一句にします。

セロ弾きのセロに黴出づ長病   照れまん

1980年代から1990年代にかけて書いた若い頃の俳句です。まだまだあるんですけど・・・・。また、気の向いた時に書きます。
このブログに写真が載せられなくなって仕舞っています。もう容量を超えているので駄目なようです。沢山写真を載せたいのに・・・。残念!!
ではまた・・・・。

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句集「メトロノーム」その2

緑陰は腕試しの場音楽院  照れまん

「メトロノーム」と言う句集は、私が若い頃、面白半分で書いていたものです。和紙のノートに書き留めただけの物なので、句集が出版されているわけでは御座いません。
句集の最後の「あとがき」の日付が1998年2月1日となっています。俳句を始めた1983年頃から14~15年間の気に入ったものを少しづつ書き溜めたものです。まだ若くって、自由奔放に書き足していました。誰にも書けないようなひらめきや個性のあるものが書きたいと思っていた頃の作品です。

絵師歌人茶人俳人花衣      照れまん

朧月泣いてかわうそゐなくなり

どの俳句も懐かしいものばかりです。

牡丹園狐の嫁入り通りけり    照れまん

村ぢゆうの風を孕みて鯉幟

ほうたるを指輪の如く渡しけり

西郷の見下ろす日本天高し

息をかけ印鑑覚ます歳暮かな

一つづつ島を包みて雪の来る

芭蕉出で芭蕉に終はる枯野かな  照れまん

この頃は入院生活をしていて、たまたま二人の患者さんに「俳句を始めませんか?」と誘われた。私は文学や詩など全く興味が無く、素養も無いのでお断りしたのですが、強引に誘われて始めることに・・・。しかし、勧めた二人の患者さんは早々に退院してしまい、以後は私一人で細々と続けていました。二人の患者さんは偶に病院に通院して来て、その時必ず私の見舞いに来てくれ、俳句の載った新聞や週刊誌や俳句雑誌を買ってきて下さいました。
私の俳句が新聞や週刊誌に載ったりすると、「載ってるよ~!!」とても喜んでくださり、その新聞や週刊誌を持ってきて下さいました。本当に有り難いことだと思います。その二人の患者さんは、もうお亡くなりになってしまわれましたが、今頃遅いですが、感謝を申し上げたいと思う次第です。
「その節はありがとう御座いました!!」

音叉打つ余韻の月に吸はれつつ  照れまん

(音叉=おんさ)音楽家は毎日毎日調弦や調律に音叉を使うのが仕事。そんな時窓から見える満月がとても美しかった。
まだまだ句はありますので、続きはまた気の向いた時に書きます。
そこんとこヨロシク・・・・!ではでは・・・・。

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句集「メトロノーム」その1

伯林にて求めし楽譜曝しけり   照れまん
伯林=ベルリン

「メトロノーム」という句集が出版されているわけでは御座いません。1980年代から1990年代中頃にかけて、自分が勝手に和紙のノートに書き綴っていた句集です。誰にも見せたことはないのですが、そんなのが見付かりましたので少しだけ載せて見たいと思います。

天上の島かと思ふ桜かな     照れまん

金網の内なる天守利休の忌  

茶の頭巾脱ぎて尾を出す猫柳

住職は園長先生鯉幟

我が家は保育園をしていました。田舎の小さな保育園。しかし、段々と子供達が少なくなり、昨年遂に閉園。71年の歴史に幕を閉じました。

蘭鋳の恐い顔して可愛くて       照れまん

烏賊・蛸・鮑、舎利を抱かされ喰はれける

子には子の荷物のありぬ蝸牛

ヴィオロンを日傘の中に抱く少女

滑り込むベース叩いて夏終はる

兄弟の出来も不出来も十三夜

句歌留多の子規も芭蕉も叩かれて    照れまん

今回はこれだけにします。
それでは、最後の一句。

悴みてメトロノームのから響き  照れまん 

この句から、句集の題名を「メトロノーム」としました。まだまだ句はありますので、そのうち気の向いた時に続きを載せます。
これらの句は以前にもこのサイトに載せたことが御座います。そこのところはご了承下さい。
ではでは、また・・・・。  

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地震

春の地震磁石の針のまだおびえ  片山由美子

 2024年4月17日午後11時14分頃、四国愛媛県宇和島沖の豊後水道を震源とする地震が発生。M6,4 愛媛県愛南町震度6弱。高知県宿毛市震度6弱。宇和島市震度5強などとなっている。
 私の住む山口県周防大島も震度4。初めは小さな揺れが10秒くらい続いただろうか。そしたら急にグラグラと大きく揺れ始めた。横揺れが暫く続いたが、規則的な動きで木造の家屋がミシミシと音を立てるがそれほど大きな音ではなく、暫くして治まった。外に出ようかどうしようかと身構えていたが、以外とそれ以上に大きくならなかったのでそのまま座っていた。一応パソコンのスイッチを切って廊下に出てみる。離れに住んでいる甥が「どうかね!」と来てくれたが「大丈夫よ~!」と言った。
 愛媛県や高知県があまり大きな被害にならないことを祈るばかり!!

 日本は地震大国。俳句の中に、地震が沢山詠まれています。
「地震」と書けば、普通には「じしん」 と読みます。しかし、俳句では「ない」と読ませることも多い。
最初に掲載の句も 春の地震(なゐ) と読みます。
地震:ない・なゐ・なえ は古語。古代にこう呼ばれていた。日本書紀に「地震・ナヰ」とあるようです。

 ちなみに、英語では「earthquake」アースクェイク と言うそうです。

 それでは早速ですが、地震の俳句を幾つか載せて見たいと思います。
先ず、私の最も感動した地震の俳句。阪神大震災の後、暫くして新聞に掲載されていた句。

命ある家ある寒の水がある  神戸 山本あかね 

 1995年1月17日午前5時47分、阪神・淡路大震災発生。直下型地震という未曾有の大震災。この大震災に遭われた方のようです。
 明け方の5時47分というと、真冬なのでまだ真っ暗。寝静まっていると、突然ひどい揺れと轟音。家の中の物は倒れ散乱。何が起こっているのか解らず只悲鳴だけ。ようやくおさまってきたのでなんとか外へ出ようとするが停電で真っ暗なので何も見えず。何とか必死に外へ這いだす。命からがらと言う感じ。助かったという思いと恐怖。外に這い出すと近所の人の声もする。みんな涙声で震えている。時々余震もあり恐い。少し経つと次第に明るくなってきて廻りが見え始めると、とんでもないことになっている。多くの家が倒壊したり傾いたりしている。我が家は無事残っている。その後、このお宅には井戸があったのか湧き水があったのでしょうか?とにかく水がある。これで、暫くは生き伸びることが出来る。
 この句には、そんな緊迫感と迫力があります。今読んでもすごい句だなあと思います。
 山本あかね氏。昭和10年神戸生れ。昭和63年俳句を始める。波多野爽波に師事。俳誌『青』入会。のち、「百舌」」入会。
ところが、最近こんな句を見付けました。
  命あり家あり寒の水を飲む  坂田栄三
 坂田氏については、インターネットで調べたのですが、記述が見付かりません。それで、山本あかね氏の俳句とこの句の関係は解りません。どちらが早いのか、その他も不明。よく似ていますよね。どうなんでしょう???

山眠る地震観測計を秘め    神器器

友といて春の地震の二度三度  坪内稔典

上の二句とも「じしん」と読みます。

梅の万蕾をうながす震度四   鷹羽狩行

強震の夜の寒星を密にせし   山口誓子

激震の傷あとあらは山眠る   加藤良子

地震というのは本当に突然来ますので恐いですね。

目が覚める地震雷火事おやつ  照れまん

 失礼!つまんない駄洒落句を載せてしまいました。
「地震雷火事親父」。古来より地震が一番恐いものだったようです。突然来て、地面が揺れたり裂けたりしますからね。本当に恐いです。
 最後の親父ですが、昔親父は非常に権威があり恐いものだった。また、名主や庄屋や頭領を言う意味だったのではないかと言われています。それと、春や秋に吹く南風を「やまじ」とか「あなじ」と呼んでいた。強風になると「おおやまじ」と呼ばれていた。これが、「おやじ」になったと言う説。地方によっては強風を「おやじ風」と呼ぶ地方もあった。いわゆる台風です。それで、洒落もあって「おやじ」にしたんでしょうか?恐い物なのに、おやじとすると面白い。洒落ていて粋なことわざになりますね。
 1831年に書かれた『尾張童遊集』というのに書かれている、「地震雷火事おやぢ」が最も古い記述だそうです。

 今回の愛媛高知地震はM6,4とマグニチュードが少し低く、南海トラフ地震とは関係付けて考えなくてもいいと専門家の意見。
 あちこちにかなりの被害が出ているようですが、ケガ人が13人と発表されています。ものすごく大きな災害にならなくて良かった。被害に遭われた方には、「早く元の生活に戻れますように」としか言えません。お気の毒ですがすが頑張って下さいとしか言えないのが申し訳無いところです。

瓦礫より出て青空の蠅となる  高野ムツオ

四肢へ地震ただ轟轟と轟轟と  高野ムツオ
ししへなゐただごうごうとごうごうと

 高野ムツオ氏(1947年~ )は宮城県出身の俳人。2011年3月11日午後2時46分、東北大震災の時、仙台市内で大地震に遭遇。そこから自宅の多賀城まで帰るのに、ものすごく時間が掛かったそうです。津波が自宅の手前200メートルで止まっていたとか。そんな、大変な目に合われたようで、多くの震災の句を詠まれています。
 余談になりますが、NHK全国俳句大会で私の句「広島は今も広島雲の峰」を大会大賞に選んで下さいましたのが高野ムツオ宗匠です。
 その節はありがとう御座いました(☆∪◎)ペコリ。

 今回4月17日に地震で揺れましたので、この記事を書きました。自分でも地震の句は何句か詠んだ記憶があるのに、何処を探しても見付かりません。
 まあ、俳人の書かれる句がすごいので、私の句は無くても良かったと思っています。ただ、地震の句は沢山あるのに、ほんの僅かしか載せることが出来無かったことを申し訳無く思います。

地震すぐNHKに切り替える  照れまん

 急に作ったら、季語が入りませんでした。・・・・残念!!(×∪×)
そんなこんなですが、またヨロシク・・・・。

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川柳であそぼ その2

登ってるはずが下りの四十路坂  照れまん

この句は、私が40代になった頃に詠んだ句です。1992年8月20日の日付が毎日新聞の切り抜きに書かれています。
1980年から1990年代初め頃、ずっと入院してました。その頃面白半分で作っていたものです。

遊ぶ田に遊ぶ子供の姿なく    照れまん

軽トラで神輿を運ぶ村祭り    照れまん

雨の日も晴れの日もなし池の鯉  照れまん 

苦しい時祈ったことをもう忘れ  照れまん

部屋長は古参患者の元気者    照れまん

天花粉塗られて笑う孫と爺    照れまん

結婚をしてちょうだいと親頼む  照れまん

話し合いしたから憎み合うことに 照れまん

最後の一句。
毎日新聞「万能川柳」秀逸、1992年4月1日掲載。そして1992年5月25日「万能川柳・月間大賞」として掲載されたもの。

生きるには弱く死ぬには元気すぎ  照れまん

私は若い頃、音楽家をしていました。それで、音楽家の友人が多い。そんなことから入院中に音楽家の友人から手紙が来ました。その中に友人が「音楽家を続けるには下手だし、辞めるにはうまいし、困ったもんです」などと書かれていました。これは面白いと自分のことに書き替えたのがこの句。御陰様で、この句で賞を頂きました。ありがとう!!
友人の方が面白い(◎∪☆)!! 笑っちゃいます・・・。
そんなこんなで、お目汚しをしてしまいました。そういうことで、また・・・・。

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川柳であそぼ その1

職業は?と聞かれ患者とつい答え   照れまん

この川柳は1980年代から1990年初め頃、入院中に作った句です。
入院中はとにかく暇なものですから、川柳を毎日葉書一枚に2句書いて投句してました。
新聞には、毎日一面に時事川柳が載っているものもあり、他の新聞でも二面か三面に川柳欄が毎日あるものもあります。それから、俳句欄や短歌欄と同じく一週間に一回川柳欄があるものもあります。そういうところに、時事川柳や面白川柳を作っては投函していました。

遅刻して血液型のせいにする   

禊していっそう汚れ目立つ人   照れまん

時事川柳は時間が勝負。どれだけ早く出すかで決まります。でもやはりいい句でないと駄目ですけど・・・。同じニュースにt対して発想は皆良く似ていますから。
この句の政治家は誰だったかは忘れて仕舞いました。一度辞めて、その後選挙で再選したんだったと思います。

化粧品年々減るのが早くなり   照れまん

この句は、世の女性を詠んだものです。怒られそう(×∪×)!

葬儀屋は親戚よりも早く来る   照れまん

入院中、私は新聞を取ってはいませんでしたが、患者さんがそれぞれ色んな新聞を取っていました。それで、私の句が載ると「お~い、君の句が載っとるど~!!」と喜んでくれ、新聞を見せてくれていました。有り難いですね・・・・。

都会人ごっこしている村の主婦   照れまん   

二十歳の顔しても鏡はしてくれず  

ボランティア鮫の見張りに狩り出され  

子に送る為に農業続けてる     

最後に、毎日新聞「万能川柳」で秀逸に選ばれた句。

元気そうと言われ患者むっとする  照れまん

それじゃ、又・・・・。

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歌集『只今入院中』照れまん その3

病みてより食事の前に掌を合わす
幼き頃にしていたやうに     照れまん

この短歌は1980年代から1990年代初め頃、入院中に詠んだものです。
それで、『只今入院中』なのですが、今は入院しているわけではありません。
病院には当時、若い人も何人か入院していて、とても楽しく入院生活をしていました。
若者が集まり、トランプなどをしてキャアキャア言いながら遊んでいました。それで、よく看護婦さんに怒られていました。
本当にとんでもない連中でした。御免なさい!!今頃謝ります。

一枚の残る田んぼに青々と稲の育ちぬ
夏の陽を受け           照れまん

降り積もる心の中の言の葉を
君に見せたい紅き一葉を

白百合や牡丹や薔薇と言えなくて
後ろ姿の君は人妻

鶴は千年亀は萬年
年取ればツルッと飲まな噛めまへんねん

変な駄洒落短歌をつくって御免なさい。

病みし手をやさしく握る君の手の
ぬくもり伝ふ吾が静脈に

夕暮れの病院前のバス停に我を見舞ひし母の佇む  
                   照れまん

短歌っていいですね!!この頃は、その時の気持ちが素直にそのまま書かれています。

今しがた逝きし患者のその床に
点滴しつつ急患入れる      照れまん  
 

そういうことで、歌集『只今入院中』その3 を載せて見ました。

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歌集『只今入院中』照れまん その2

勤務終へ深夜一時に看護婦の帰る車の出ゆく音す 
                  照れまん

『只今入院中』 と書いていますが、実は今現在は入院中ではありません。今は実家でのんびりと療養中。時々カメラを持って散歩に出たりしています。
これは、1980年代から1990年代の初め頃、入院していた時に、面白半分で作っていた短歌です。
前回に続き、その2 です。
歌集『只今入院中』という本が出版されているわけでは御座いませんので、そこんとこヨロシク。

  吾にだけ怒りっぽくて優しくて
  素直でシャイな君のエンピツ   

  時計より目を放さずに一分間
  脈を測れる看護学生

  白衣着替へ帰りゆく君
  病窓の我に手を振る髪を靡かせ

  どうしようもないなと一人つぶやきて
  安定剤を2錠飲み込む 
        照れまん

懐かしいですね~!!
この頃、病院内で写真を撮ったりしていて、その写真に短歌を書いていたりします。看護婦さんや患者さんも写っていて、懐かしい顔が一杯。       

信心を持たざる我が掌を合はす伏して十とせの秋の夕陽に      
                      照れまん

下手な短歌ですが、気持ちと言うことでお許しを・・・。
そういうことで、今回は 歌集『入院中』その2 を載せて見ました。
ではでは・・・・。

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歌集『只今入院中』照れまん その1

 吾が胸裡(くり)の高鳴り知らず脈をとる
 ナースの君の指の冷たき
          照れまん

実は『只今入院中』という歌集があるわけではありません。これは、1980年代から1990年代初め頃、私は入院中だったものですから、その頃面白半分で短歌を作っていました。
勉強した訳でもなく、誰かに習ったわけでもなしに、自己流で勝手に詠んでいた素人短歌です。

三つ編みの看護学生お辞儀して
脈取りしのちまたお辞儀せり
   

百合よりも白く朴より気高くて
瞳輝く新卒ナース

以前、ブログに載せたものもあるのですが、もう一度載せて見ました。

キコと鳴りまたキコと鳴る病廊の
歩行訓練日毎に早し

この短歌から生まれた俳句。

振り向けば古希と首鳴る敬老日  照れまん

この句を読んだ時にはまだ40歳前後。父が古希になったというので詠んだものです。いずれ、私も古希になるんだろうなと思っていたら、あっという間に古希を越えてしまいました。「進化より老化の早き秋の暮れ」照れまん ・・・ってな感じです。

 ウインカー点滅させて帰りゆく
 君の小さなピンクのキャロル
    照れまん

入院中に七夕があったり正月があったりしました。それで、短冊に短歌を書いて竹笹に吊したり、書初めで半紙に清書したりしてそれが廊下に張り出されたりしてました。それが、看護婦さんや患者さんにすごく受けて喜ばれていました。、
「誰々!」「誰のこと?」。「これ誰が書いたの?」などとちょっと注目されて、プレゼントに御菓子や飲み物など貰ったりしてました。

昔作った下手な短歌ですが、懐かしいのでちょっと載せてみました。
ではでは・・・・。

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